1.こんにちは
 家に帰ると赤ん坊がいたので、
「どこの子であるか?」
 と聞いたところ、
「うちの子です」
 と妻は言った。

 どうやら自分は今日からパパになったらしい。

 テーブルを囲んで朝食をとる幸せな家庭の風景を思い浮かべた。妻と子、自分の三人。日の差す明るい台所で、食卓を囲んでパンを食べる光景――。
 うむ、なかなか悪くない。

 悪くはないが、誰の子だ?

 赤ん坊は妻の腕の中で気持ちよさそうに眠っていた。

*

 妻はなにも語らなかった。その後も何も語らなかった。たとえば、初めての赤ん坊の世話に対する不安も、なかなか家に帰らず家事を手伝わない自分への不満も、家事と育児に追われ、自らの腕を磨く時間が削られていることへの不満。
 どうして赤ん坊がうちにきたのか、その理由も。
 理由を見つけることは簡単だったはずだった。たとえばその日は雨が降っており、釣鐘塔の下で子猫と一緒に泣いている姿を見つけたのだとか、妻自身もまた戦争でつらい思いをした経験から見捨てるわけにはいかなかったとか。適当な理由はいくらでも思い浮かぶにもかかわらず、妻はなにも語らなかった。
 自分もまた何も問わなかった。この赤ん坊がいまここにいる、そのことに対して理由はいらなかった。家族であることに、いったいどんな理由がいるのだろう。
 語らないこと、それがおそらく、妻の赤ん坊に対する責任だったのだ。妻は、自分が子どもに与えた一瞬の「親切」に、しゃべらないということで責任をとったのだ。
 やさしさは罪深い。やさしいだけでは罪深い。
 やがて子どもは成長して、出自を不思議に思う時がくるだろう。そのとき、この子が問いただす理由にたいし、何と答えてやれるだろう。

 妻は一度だけこんなことを言った。

「こんにちは、と言ったのですよ」
「……こんにちは、であるか?」
「ええ。この子は私を見て、『こんにちは』と言ったのです」

 こうして、家族が三人になった。