3.ご ち そ う さ ま
 食べることができなくなった。
 確かにこのところは暑い日が続いていた。日中忙しく働いて、帰ってきた灯かりのない家には料理など用意されているはずもなく、ついつい食べないで済ましたり、せめてもの慰めとばかりにミルクを一杯流し込んで寝てしまう日が多かった。それは確かだった。だからといって食べることが嫌いなわけではなく、どちらかというならむしろ食事は好んでいたし、よもやその程度のことで「食べられなくなる」こともないと思っていた。
 考えたこともなかった。
 食べられない度合いというのも難儀なもので、食事を作ったり、人が食べているのを眺めたりする分には何の問題もない。それを自分が食べるとなったとき、どうにも食べられなくなる。なんというか、それらが口の中に入り、それらをかみ砕き、それらを胃の中に落とす、ということが、うまく想像できないとでもいおうか。
 それらは美味しそうだし、申し訳程度に腹も鳴る。
 しかし食べられないのである。

 こまったものである。

 困ったついでに、加えて困ったことがおきた。
 アレクサンドリアの宮廷料理人に空きがでたので、そこで働いてくれないかというのである。
 なんとまあ、夢のような大出世だ。
 しがない一介の料理人、つい先日まで、とくにこれといった夢も目標もなく日々をやり過ごしていたものが、だ。やんごとなき方々にお城の料理を作るのだ。どえらいことではないか。断るような理由は見当たらない。ただひとつ、自分が食べられない、ということをのぞいたら。

 いやほんとうに、こまったものだ。

 断るに断われず、というか断る気持ちもさほどなく、ずるずるとその日を迎えた。万事がそのようなずるずる加減だったので、困った様子を見せびらかしていたつもりはなかったのだが、お師匠にはばれていた。
「元気ないアルな」
 お師匠こそ、たいていいつも元気がなさそうな風貌をしていた。顔の色は真っ白だったし、目はどこをみているのかよくわからなかった。すくなくとも自分よりは元気が無い。あるなしでいうならそうだと思う。でも言い返すわけにもいかないので黙っていた。久しぶりにあったけれど、師匠はやっぱり元気のあるのかないのか分からない、よくわからない顔をしていた。まあ、人のことは言えないのだが。
「さては、うまいもの食べてないアルな?」
「はあ」
 うまいものどころか、ここのところ何も食べていないのだが。
「ちょっと待ってるアルよ。いま、うまいもの食べさせてやるアル」
「あの……」
「『汝、ご飯を与えよ!』! これ、ク族の教えアルよ」
 相変わらずの強引っぷりだ。だいたい、師匠ともこれが何年ぶりかの再会なのに、ちっともそんな空気ではない。だいたいいままでどこへ行っていたんだこの人は。突然ふらりといなくなったと思ったら、探すのもあきらめたころに戻ってくる。とっくにそういうことにも慣れていて、今回はその何度目かだった。
 こっちへこいと手を引っ張られて連れて行かれた先に見えたのは、アレクサンドリア城だった。
 入口で、立ち止まった。
「……お師匠、今日からボクはここで働くことになってるアル」
「オホー! ワタシの後任は、オマエだったアルな!」
 突然いなくなった料理長って、お師匠だったのか。
「師匠、なんで厨房に戻らないアルか?」
「ワタシは世界の食を極めることに決めたアルよ。でも、アレクサンドリアにもうまいものはたくさんあるから、安心するがいいアル」
「そんな心配してないアル……」
「うまいもの、きらいアルか?」
「嫌いじゃないアル……食べられないだけアル……」
 ついぽろんと口をついてでた言葉に、お師匠はまた、「オホホー!」と声をあげた。
「食べたくないアルか?」
「そんなことないアル。食べようとしても、食べられないアル」
「ああ、それなら大丈夫アル」
 師匠はなぜか、得意満面の顔で(よくわからないのに表情はわかるのだ)うなずいた。
「みんなで『いただきます』言うアル。それで、みんなで『ごちそうさま』言うアルよ」
「はあ」
「ちょうどいいアル! 城には知り合いがたくさんいるアル。一緒にさそってご飯にするアル!」
 はあ、と再び返事をした。  お師匠は楽しそうに、加えて勝手に城へと入った。なぜか城の兵隊たちは、城内を我が物顔で闊歩するお師匠に気にも留めない。そのままお師匠と二人で厨房に入った。厨房の料理人たちも心得たもので、勝手にはいりこんだ師匠を見るや否や場所をゆずる。敵に回さない方がいいことを心得ているのだろう。師匠はフライパンやらボウルやらを用意しながら、卵を割ったり野菜を刻んだりを始めた。
 いいにおいだ。
 においを嗅ぎつけて、城の兵隊たちがわらわらとお師匠のところにやってきた。時刻はちょうどお昼時。どれもこれもお腹を減らせた顔だった。
「おお、料理長じゃねぇか! 久しぶりだなあ、今日はなに食わしてくれるんだ」
「また『トリックスパローの角煮』、作ってくれよな!」
「オホー! 相変わらず、食いしん坊アルな!」
 お師匠に言われたらおしまいだ。
 いつの間にか食堂付近は満員だった。お師匠はフライパンを揺らしながら、城の料理人たちに、鍋に水をいっぱい張るように指示を出す。シチューでも作れば五十人前はいけそうな大きな鍋だ。
「クエンも手伝うアル。げんこつ芋と、かちかちニンジンの皮むき、まかせたアルよ!」
「は、はいアル」
 お師匠は普段は見せたこともない機敏な動きで厨房をかけまわる。指示はいちいちうるさいけれど的確で、料理人たちは指示にしっかりついてこうと懸命だ。お昼を告げる鐘が鳴る。急ぐアルよ! お師匠の叱咤激励。五十回、シチューをお皿についだところで一斉にご飯の時間が始まった。
「いただきます!」
 くたびれ果てて厨房の椅子に腰かけていたら、お師匠はまたも手を引いた。
「ほら、オマエも行くアル」
「えっ」
 食堂の長い机には、二人分の席とシチューのお皿が用意されていた。兵隊たちが手招きしている。はやくしないと食べちまうぞ、の合図だ。
「『何を食べるかではない、誰と食べるかだ』これも、ク族の教えアル」
 でもいまは食べられないから、と言おうとしたとき腹が鳴った。
 久しぶりの空腹だった。地響きみたいな音がした。