5.お や す み

「明日の幸せを願って人は眠る。昨日の不幸をすべて忘れてしまうために」

 と口に出して言ってみてから、ボクは、

「そうかなあ」

 と、これも口に出して言った。
 べつにどっちも本当に思ったわけではなくて、声にしてみたら、声にしてみて出てくる音を自分で聞いたら、なにかわかるんじゃないか、わからなかったことが分かるんじゃないかと思ったんだ。
 でも、だめだったみたい。
「眠るのは、眠たいからだよ」
 って、ボクが言ったら、みんなも、そうだね、って返事してくれた。だから、ああやっぱりそうなんだ、ってボクは思った。でもやっぱり不思議だった。眠るってことが。
 「眠たいから眠る。」
 から、ってなんなんだろうね。眠たいけど眠れない夜もあるし、眠たくないのに眠れるときもある。ビックス先生のまほうの授業のときなんか、とくにそうだ。なんにもしてなくたって眠くなる。はんたいに、お祭のよるは、どれだけ動き回ったあとでも、ちっとも眠くならない。目が冴えて、このままずっと起きてられるんじゃないか、って思う。その日だけは外で寝てもいいっていう特別な日だから、遠くの方のチカチカしている砂粒みたいな星を見上げながら、あのチカチカはどうやってるんだろう、ガラスの反射かしらって考えているうちに、いつの間にか眠ってるんだ。いや、正確には、いつの間にか朝日がのぼってる。
 だから、眠るってことがどういうことなのか、ボクは知らない。眠ってたのかな、眠ってたんだなあ、って思うだけだ。
 だから、そう思うから、やっぱり「眠い」から「眠る」って、ボクは納得できなかったんだ。
 みんなは返事してくれたけど。

「明日の幸せを願って人は眠る。昨日の不幸をすべて忘れてしまうために」

 そうなのかなあ、って、ボクは思うんだ。
 ボクにだって、忘れてしまいたいような、悲しい過去がある。たくさん、というほどではないけれど、それなりには、ある。忘れてしまいたいと、思うこともある。でもそういう記憶は、気が付いたら、忘れてるんだ。いや、この言い方はすこし正しくない。つらく悲しい過去を思いだしたとき、それまでその過去を忘れてたことに気がつく。だから多分、ボクはボクの「つらく悲しい過去」を忘れてた時間のほうが長い。
 思い出して、ああ悲しかったな、って思うんだ。
 だから、つらく悲しい過去は、忘れても、忘れても、思い出すんだと思う。忘れることができたら、それは多分、今のボクがボクとは違うひとになったときなんだ。

「明日の幸せを願って人は眠る」

「昨日の不幸をすべて忘れてしまうために」

 そうなのかな。

 忘れるものじゃない。忘れられないんだ。思いだすから、明日のボクはボクなんだ。だから、ボクはボクが過去を思いだせなくなった時が怖い。きっとそれが、「土の下で眠る」ってことだ。「死ぬ」ってことだったんだ、と、思う。
 起きた時、悲しい夢をみて、怖い夢を見て、いろんなことを思い出して、泣いてることがある。でも、ボクは夢を夢だって思えることに、すこしホッとする。ああこれは夢じゃない。あれは夢だったんだ、って、思えることに。
 昨日の不幸も怖い夢も、全て忘れてしまったら、それは、もう昨日のボクとは別の人だ。

 このひとのことはよく知らない。聞いても、みんなあまり教えてくれない。ボクもそれ以上知ろうと思わない。だから知らない。
 でも、夜寝る前に、灯かりを消した部屋の、花瓶の裏や本棚の隙間にひそんだ、ほんとうに真っ暗闇の奥をみつめていると、このひとの言葉を思い出す。そして、このひとは、眠れなかったのだろうな、と思う。

 眠ってしまった人の代わりになって、ボクは代わりになって思い出す。