6.ひ さ し ぶ り
 彼女の見つめる先には海があった。
 彼女の真似をして、太陽にてをかざして遥か彼方の海のさきをすかしてみたけれど、目に映るのはただひたすら広い海だった。まぶしさに耐えかねて、目をつむり、首を振った。彼女はじっと海の果てに目を凝らしていた。
 その先には船がある。船体に打ち付ける波は黒かった。海原は空より早く闇に染まっていた。船は黒い海原に、白糸のようなか細い泡をひっぱって、西へと航路をとっていた。
 船の向こう側、夕日の落ちる海の先は、霧がかり、反対側にあるはずの半島の、山脈のかたちさえも浮かばない。  ときおり、彼女は、つ、と首を斜め上の右のほうへ向けた。
 その仕草は子どもを待たせた母鳥のようだ、とそのとき僕は思った。

 声が聞こえないか、私には聞こえる。そういう意味のことを彼女は言った。年齢と外見にそぐわない、古めかしい言葉を彼女はつかった。僕は首を振った。波の音しか聞こえなかった。

 彼女はまた再び、海の向こうに想いを馳せる。僕の姿の入り込む余地は、髪の毛ほどの隙間もないくらい、真剣な、どこまでも果てしなく見渡そうとするような、情熱的なまなざしだった。それは遥か前方かなたにかすむはずの山脈を鳥より早く風にのり、谷を越えるファングの群れを見下ろして、小川のせせらぎにその身をゆだね、ついには海に出てもなお、その果てにあるはずの新大陸を見透かしてしまっていた。そしてついにいつの間にか元の場所にもどってきた彼女は、僕にふたたびこう問いかけるのだ。

 いいや、やはり誰かの声が聞こえた、確かに聞こえたのだ、と。

 ああ、と僕は思う。
 僕にその声は聞こえない。残念なことに、ありがたいことに、僕には聞こえないのだ。聞こえてしまっていたのなら、僕もまた後戻りのできない、遥かかなたの海の向こうまで見透かす視線を持って、彼女のあとを追わねばならない。僕にそれはできそうにない。いまのこの、目の前の風景ですら瞼に刻むことで精いっぱいの僕には、とうていできる芸当ではない。彼女の見ている風景と、僕の見ている風景が違うこと。それはもう、絶望的に、僕のこのちっぽけな頭と心臓を悩ます、キャラメルのように甘くねばっこい思いは、ついには彼女に届かないということなのだった。

 おーい、と背中から遠くの方で声が聞こえた。今度は僕にも確かに聞こえた。ともに旅をしている少年が、夕食の支度ができたと手を振っている。小柄な彼がぴょんぴょんと上下に跳ねながら、岩の隙間からかろうじて僕たちの姿をとらえて、体中をつかって僕たちのことを呼んでいた。
 そろそろ戻ろう、と僕は声をかける。一呼吸には長すぎる間をおいて、彼女は振り返り、戻ろう、と海に背を向けた。
 僕は夕日に照らされた岩肌の、赤黒く燃える花のような陰影をにらんだ。そして、その夕日が沈みゆく海を、空から一直線に切り取られたかのように闇で黒く染まった海を、振り返った。
 僕は息をとめ、耳に手をあてた。
 波の音。風の音。ときどき、鳥の鳴き声と、かすかに翼のきしむ音。それらにもましてじぶんの心臓の音が聞こえてきたとき、ため込んだ息を吐き出した。ぶわあ、といった具合に吐き出した。それから今度は力いっぱい息を吸った。風は潮の味がして、身体に変な空気の送り方をしたせいで、少しばかり頭がくらくらした。

 おぉーい。

 おぉーい。

 声は聞こえない。
 きっと、聞こえたとしたらこんな感じなのだろう。どこか高いところから、彼女のことを呼んでいるのだろう。こっちへこいと呼ぶのだろう。でも、彼女も多分行けないのだ。呼ばれても行きたくても行けないのだ。だからあれほど熱心に、なすすべもなく困ってしまって、海のむこうを見つめているのだろう。それは僕が、聞きたくても、彼女の聞く声が聞こえないのと同じだった。僕には彼女の、どうしようもない、宙ぶらりんの気持ちが痛いほど、本当に考えれば考えるほど、胸の上のほうが痛くなってくるほど、分かってしまっていた。
「人を待ってるんだ」
 彼女と行動を共にする、まだ年端もいかぬ少年は、見た目の割にませた口調でこのように言っていた。
「ずっと前に行方知れずになって以来、探してるんだ」
 そうかあ。と、僕は気の抜けた音で返事をした。
 海の向こう側からの呼び声に、彼女は向かってしまうのだろうか。それとも、こちら側で声の主が帰ってくるのを待つのだろうか。
 帰ってきたとき、声の主は、どんなふうに彼女に声をかけてくれるのだろうか。
 せめて、僕は思う、せめて神さま、彼女にあれ以上あの声を聞かせないで下さい。神さま、もしも彼女のすがたが見えているなら、ひさしぶり、と、その人に一言言わせてやってください。その一言で、彼女のあの果てしなく長い、とめどもない旅はどれだけか報われるのに。
 声の主は現れない。神さまもついに姿をみせなかった。夕闇は無遠慮にやってきて、あたりはみるみるうちに真っ暗になった。遠くの方で、少年と彼女の囲む焚火だけが、そこだけが世界の居場所であるかのように、ちろちろと赤く燃えていた。