8.た だ い ま

 街は全体的にうかれ気分で、それもそのはず、街は一週間後に年越しのお祭りを控えていた。
 市場はいつにもまして人でごったがえしており、さまざまな声、笑い声、呼びかける声、ときには怒声があふれかえっていた。こちら側では、教会から続くれんがの歩道を、少年がふたり、年長の方が年下の手を引いて、長パンのはみ出る紙袋を抱えて人ごみをかき分け、あちら側に目をやれば、魚屋のおかみが今日が最後のかきいれ時といったようすで、山ダイコンみたいな太い二の腕をふりまわしてお客を呼んでおり、おばさんの向く方には、お父さんとお母さんと生まれたての赤ん坊が、幸せの色が目に見えるような笑みをたたえてゆっくり歩いている。似顔絵の露店を出していたおじいさんが猫と日向ぼっこをしているよこでは、おなじような露店がいくつも肩を並べており、ファングの串焼きや、ドテカボチャの煮付けといった料理が湯気を立てている。
 二人の少年は、人ごみに溺れそうになりながら、かろうじて前進していた。教会では毎年、年越し支度に難儀をする者たちのために、食事や衣服、祝いのお飾りを配っている。牧師さまのお話を聞いて、神さまにお祈りし、讃美歌を歌い、帰り際にパンや果物、古着を分けてもらうのである。教会の牧師は、信心深いものも、そうでないものも、わけへだてはしないことを心得ていた。
「あっ」
 年長の少年に手を引かれて人ごみを歩く男の子が声をあげた。急に立ち止まったせいで、前を行く少年は思わず手を離し、苛立たしげに振り返った。
「おいてくぞ!」
 先を行く少年は食糧のつまった紙袋を大事に抱え、人ごみをすり抜けていく。後を追う彼は、小さな体を有利にあつかえるほど、まだ成長していないのだった。あっという間に、少年の姿は見えなくなった。追いかけようとすればするほど、目の前に背の高い人や身体の大きなひとが現れて、行く手をさえぎってしまう。自分がどちらを向いているのかわからなくなって、彼はとにかくここからでよう、息のしやすいところに行こうと無我夢中で誰かの足の間をすり抜けた。そうしてようやく大通りの喧騒をぬけた先は、歩いたことのない街だった。
 靴を片方なくしていた。立ち止まったのはそのせいだった。片方しかなくなった靴は歩きづらかったのでもう一方も脱いだ。手にはめて歩いた。脱ぎ捨てるのはやめにした。靴を履かせたのは知らないおじさんだったが、その人と一緒にいると、なにか良い気持ちだったのを思い出した。不快ではないことが、彼にとっては重大な出来事だった。
 大通りの活気をうけて、路地裏の人通りはいつもより少し多いくらいだった。そのままどんどん歩いていった。寝床に帰れるともおもっていなかったし、本人がそうと気づかぬうちに、帰る気さえなくしていた。
 彼にとっては、どこでも同じ「見知らぬ街」だった。
 気まぐれに、路地を右へ左へ折れまがった。徐々に人通りも少なくなった。野良猫が一匹、さっきからずっと自分のまわりをうろちょろしていた。その場にしゃがむと、猫は彼を見上げて鳴き声をあげた。手を右へ左へと動かすと、そのほうへとまとわりついてくる。そうして、猫が背を向けてかけ出すころ、ふと、顔をあげた。あたりはすっかり薄暗くなっていた。
 路地をぬけた。ずっとずっと向こう側の空が、真赤に染まっていた。うえのほうは深い青色で、彼はその青色を見ていた。やがて青が黒に変わる頃まで、ずっと見ていた。
 空がずっと青ければいいのに、とおもっていた。それなら、ずっとここでこうしているのに。
 背中をめいっぱい反らせて真上を向いたそのうえに、突然影が差した。
「……こんなヘンピな場所で、なにをやっとんじゃあ!」
 脳天にとんでもない音が反響し、なにがおこったのかもわからず、声もあげられずに頭を押さえた。歯の根が合わず、目の奥がチカチカしていた。靴のおじさんだった。
「ボスの言いつけを守らねえやつは、今度からずっとこうだからな。よーく覚えておくこった」
 うなずくことに精いっぱいだった。頭のてっぺんがジンジン響いて、なにがおこっているのか、まだ良くわかっていなかった。彼は大変驚いていた。しだいに痛みはひいたけれど、おじさんのことが怖くなった。いままでに、これほど痛い思いをしたことはなかったのだった。
 おじさんは、すぐに彼がはだしなのに気がついた。
「靴はどうした」
 彼はもう片方の靴をみせた。おじさんは、はだしの足と片方の靴を交互に見やると、
「……なくしたこと、気にしてたのか?」
 彼は少々困った。なくなったことは不快だったけれど、そのことについて何か考えたわけではなかった。しかし、靴がないと気付いたとき、このおじさんの顔がよぎったことも確かだった。おじさんは、彼の困っているようすを見てとって、
「どうせ拾ってきたもんだからな。気にするこたぁない」
 彼は頷いた。
「オメェ、ひとりでここまで歩いたのか?」
 彼はふたたび頷いた。
「そうかい」
 おじさんはそこで、頭をバリボリとかきむしった。
「……お前さんは、あれか。この街に詳しいのか? それとも、別な場所に、アテがあるんかい」
 彼は首をかしげた。そして、すこし考えて、口を開き、そして閉じた。もう一度、何事かを言おうとして、またやめた。おじさんは、特に何を言うでもなく、彼の横にどっかりと腰をおろした。そして、彼の頭にボンと手を置いた。彼は、なにごとか、またとんでもないことが起こると思って身がまえた。何も起こらなかった。
「構わねえよ。聞いただけだ。こっちは、誰もオメェを追い出しゃしねえ」
 彼はおそるおそる顔をあげた。頭のテッペンは、まだ少しじわじわと鈍い痛みがあったけれど、おじさんの手のひらは彼の頭をすっぽり覆っており、それは決して痛くもなければ不快でもないのだった。
 男の子はうなずいた。おじさんは男の子の返事を確認すると、お尻を払って立ち上がり、せなかをひょいとつまんで肩の上にのせた。落ちまいと、あわてて頭をつかんだ。視界が急にひらけて、いままで自分のいた場所が、ずいぶん遠い場所のように思われた。男の子を肩にのせたまま、おじさんは大通りの方向へ向かった。大通りでは夜の市にむけて、ランタンに明かりが入れられ始めていた。
「今夜は、夜通し市が立つんだ。『汝、ひとり暗闇にたたずむなかれ』ってやつだ」
 今夜くらいは、独りぼっちはやめよう、という意味だと、おじさんは言った。
 汝、ひとり暗闇にたたずむなかれ。集えよ。恐るるものは己が内にあり。
 意味は、よく、わからなかった。そのことばは、教会の、しんとした空気を思い出させた。教会では、ほとんどのひとは、それらのことばを大切に聞いているように思った。それにくらべると、おじさんは、ずいぶん大切ではなさそうに扱っていた。だが、そんなことはどちらでもよかった。それが大切なものなのか、そうでないのか、どちらにせよ、わからない。
 そこで、覚えたての讃美歌を口ずさんだ。

 光あふれる そらのかなたに
 かんきの声が ひびきわたらん
 なんじのみたま とこしえにあれ
 わがいのち たえ果てんとも

「シンキ臭い歌だな。オレならこうするぜ」
 おじさんは、あんまり上手ではないダミ声で歌う。

 焼き立て白パン 肉だけシチュー
 腹いっぱい食えば みんなしあわせ
 おれにもお前にも 金はないけど
 気にするこたぁない 酒を飲もうや

「こっちのほうがユカイだろ」
 曲は讃美歌だったが、歌詞が違っていた。これが、ユカイなのか、と男の子は思った。ならば、ユカイも悪くはない。おじさんはニカっと笑った。続いて、不思議なくしゃみをひとつ、盛大にした。

「さあ、帰っぞ!」