365のお題:1-5



1. ほおづえついて
 幼い頃から空想家だった。暇さえあれば空想の世界で遊んでいたが、思い返せば中学生のころが全盛期であった。当時、大学ノートに書き綴っていた漫画のストーリィを考えることが楽しくて楽しくて仕方が無かったのである。自分の生み出したキャラクターを自由に動かし物語を作る楽しさは、ロール・プレイング・ゲームに似た魅力を持っていた。わたしは当時流行っていたポケモンやFFといったRPGが大好きだった。
 大嫌いだった英語や数学は、一番の空想タイムだった。よく授業中に空想にふけっては、思いがけず当てられて戸惑ったものだ。ほおづえついて、窓の外遠くで連なる山々や家の屋根などをぼんやり眺めながら物語の続きを考えているのは、なんとも素敵な時間だった。よく授業中に空想にふけっては思いがけず当てられて戸惑ったものである。
 思いついたストーリィは忘れぬようにノートの隅にメモをした。おかげさまで、当時の英語と数学のノートの余白は秘密の暗号で埋め尽くされている。解読術は当時の私の頭の中だが、あの頃の私でさえ、どういう意図でメモしたかを忘れていることがほとんどだった様に思う。
 他にもいろいろなものを想像した。月刊雑誌に連載されていた漫画の続き、読み終えた物語の後日談、テレビで観た景色のずっと向こう。飼いたかった子猫も想像した。黒と白の猫で「ひなた」という名前にした。ひなたぼっこが好きな猫なのだ。
 ある日、いつものように数学の授業そっちのけで、空想世界に入り浸っていた時だった。
頭の中の『ひなた』がニャア、と鳴いた。私は驚いた。それまで、頭の中で作り上げた登場人物たちが声を出すことは無かったのだ。『ひなた』は目を丸くしている私の肩に飛び乗ると、ぺろりと頬を舐めた。私はひなたをひざの上に乗せた。それまで何度も空想していたように。首の下をかいてやると、ひなたは気持ちよさそうに目を細めた。シッポがぱたぱた揺れてふくらはぎをくすぐった。猫の体はやわらかく、春の陽気のようにほんのりと暖かかった。
 中学を卒業し、高校に上がると同時に、私の生活はとたんに忙しいものになった。間を空けずやってくる定期テストの点数を落とさないよう必死だったし、高校からはじめた吹奏楽部の活動が忙しかった。なにより、私はその頃最大の転機を迎えていた。入学して二ヵ月ほど経ったある日、同級生の男の子から告白されたのだ。恋愛漫画のようなトキメキもドラマチックな展開も無かったけれど、その男の子と一緒にいるのは心休まる時間だった。
 彼とは時々けんかもした。その度、男の子という生物はどうにも分からない生物だ、とつくづく実感させられ、世の中には自分が思っているよりずっと多くの考え方があるということに気付くのだった。
 今でも私は、窓際でほおづえついて思いを馳せる。空想世界は今でも私の自由自在に姿を変えてくれる。知らない世界、まだ見ぬ場所。どこにもない世界。ただ、あの空想猫のひなただけは、いつの間にかいなくなってしまった。
 幼い頃には誰しも空想の友達の一人や二人、いるものだが、いつまでもその自由な世界にとどまっているわけには行かない。人はそれを「大人になる」と呼んだりするが、それはちっとも悲しい響きなどではなく、もっとずっと明るいものなのだ。
 きっと、ひなたは安心したのだろう。
 夢中で書いていた漫画は完結しないままだ。大学ノートの白紙ページの向こう側にはひなたもいるのかもしれない。
2007/07/24/tue



2.秘密
 奴がふいに顔を上げたので、わたしは慌てて、テーブルに拡げた参考書に目を落とした。ファストフードの机は狭い。端に追いやられた筆箱が落っこちそうになっている。筆箱を引き寄せるふりをして奴の様子を伺うと、思いがけず目が合って、わたしは再び、解く気もない微分積分の問題集とにらめっこする羽目になる。
「まだ解けないの」
「手伝ってよ」
「自分でやらなきゃ意味がない」
「根ワル男」
「ひねくれ女」
 ばっと筆箱を掴んだわたしに下敷きの盾で応戦する。半透明のプラスチックに透けて見える奴の顔がいかにも楽しそうな風に笑っている。わたしはおろした手を下げシャーペンを持ちなおした。微分積分の世界はわたしを受け入れてくれそうにもない。
 ちら、と再び、向かいの席のそいつに目をやった。
 ほんとうに、人の縁ってやつは不思議なものだなあ、と思う。今でこそわたしの彼氏などをしているが、ほんの三ヶ月前までは同級生どころか、ただの他人でしかなかったのだ。
 二年生がはじまってすぐの月曜日、やつのほうから「映画に行こう」と誘ってくるまで。
 ひとめぼれってやつだろうか? 一年の時はクラスも違い、会話どころか、顔を知る機会すらなかった。わたしは取り立てて美人でもなければ目立つタイプでもない。クラス替えが終わったばかりで右も左も分からぬ中、なぜやつがわたしなんぞに声をかけてきたのか、未だに本当に謎なのである。
 なにがよかったのやら。
 わたしがそういうと、お互い様だろ、と返された。
 ――それが、ちがうんだなあ、と、心の中だけでこっそり言い返す。
 わたしは一年生の時からずっと、こいつのことを知っていたのだ。そしてこっそり横目で見ていたのだ。駅前のファストフード店で、数学の問題集を解くフリをしながら、連れの友達と楽しそうに話すこいつのことを。文化祭や体育祭で先陣切ってクラスを引っ張るこいつの存在はずっと前から知っていた。今、向かいの席にいる奴の顔を、ため息交じりに、遠くの席から気付かれないように眺めていたのだ。
 クラスが発表されて、喜んだ一方恐くなった。自分から話しかける勇気など、到底持ち合わせていなかった。せっかく同じクラスに慣れたのに、このまま何もなく一年が過ぎてしまうだろうと思うと、どうしようもない思いでいっぱいになった。
 もっとも、それは自分の責任なのだけれど。
 映画に誘われた時、驚きと戸惑いのなかで、わたしがどれだけ喜んだのかこいつに教えたことはない。
「何見てんの」
 わたしのことをじっと見ている視線に気付いて、わたしは目を伏せた。
「……見てないよ」
「俺の顔、そんなに気になる」
「ならないって」
 笑いながら返すと、ふと奴は真面目な顔をした。
「ずっと見てたくせに」
「見てないってば」
「――俺だって見てたんだよ。ずっと」
 再び目を落としたわたしは顔を上げ、まじまじと奴の顔を見た。そっぽを向いた奴の頬が少し赤く染まっている。もうずいぶんと見慣れた奴の横顔が、ファストテーブルをはさんでずいぶん近くにあることに、そのときようやく気が付いた。
2007/08/02/thu



3.再会
 学校帰りの電車の中で古い友人と偶然顔をあわせた。彼女とは小学校からの幼馴染で、よくお互いの家に行き来して遊んだ仲だった。親同士も知り合いだったので、家族ぐるみでの付き合いも多かった。中学卒業まではそうしてよく遊んだものだが、高校に入ったのをきっかけにぷっつりと交流が途絶えてしまい、ここ一年ほどお互いに音沙汰無しだった。今なら携帯電話やメールで手軽に連絡が出来ようものだが、当時の我々にはまだ高級品で、持たせてもらえなかった。
 中学生の頃からよく年上に間違われた彼女は、高校生になってますます大人びて見えた。チェックのスカートや飾りボタンといった女の子らしいディテールに凝られた私立高校の制服は、背が高く細身の彼女に似合っていた。
 久しぶりに会えて懐かしさが募る一方で、わたしは、連絡をしなかった間の一年で音もなく積もった埃のようなものを感じずにはいられなかった。用事がなくても何時間でも話を続けていられた頃が嘘のようだ。あの頃のわたしはどうやって友達を作っていたのだろう。
 驚きが通り過ぎたあとの妙な静けさを破りたくて、わたしは、クラブ帰りやねん、と言った。もうすぐ文化祭だったので、所属している吹奏楽部は普段より遅くまで練習していた。
 ――へえ、そうなんやあ。
 彼女はわたしのサブバックからはみ出たフルートのケースをちらと見た。
 ――大変そうやなあ。
 そうでもない、とわたしは返した。
 ――そっちこそ大変ちゃうん、いろいろ。
 彼女は部活に入っていない。彼女の高校にはそもそも部活が三つしかないのだ。大学入試に向けての勉強が入学と同時に始まったも同然の授業が行われるような高校で、厳しいことで有名だった。きっと、彼女もこの時間まで勉強していたのだろう。
 彼女は笑って言った。
 ――ううん、全然。クラブかあ、大変やなあ。
 彼女はわたしのひとつ前の駅で降りていった。
 それっきり、彼女とは電車の中で会うことは無かった。あの時また遊ぼうねと約束したものの、それ以降連絡はなかったし、わたしも連絡しなかった。やがてわたしは高校を卒業し短大に進学した。風の便りで彼女もどこぞやの大学に進学したと聞いたが、もはやわたしにはどうでもいいことだった。
 あの日の再会はわたしたちから何か決定的なものを奪ってしまったわけではなかったが、降り積もった埃を振り払ってくれるものでもなかったのだった。
2007/08/03/fri



4.好き
 樹になれたらいいのになあ、と、よく思う。
 おおきなおおきな樹になれたなら、どんなにいいだろうか。
 大地にどっしりと重く腰をすえ、雨風にも動じず、静かで、力強く優しい樹になれたなら――。
 だから私は、よく、樹になってみる。
 まず足を肩幅に開き、体が安定するのを感じると、目を閉じる。
 そして、右腕を上に、左腕を下へと伸ばす。ゆっくりゆっくり、やわらかくしなやかに。自分の枝の重みに耐えて立っていられるその限界まで枝を伸ばす。
 枝をのばしきると、次に葉を茂らせる。お日様のひかりを少しでも集めようと、息を大きく吸い、体を拡げる。指の先まで意識して、日の当たる面積を少しでも広げようとする。
 ゆっくり目を開け、細く息をする。わたしはもう、一本の大きな樹になる。世界がとても高速で回転している傍ら、時間に取り残されたわたしは一人、野原に青い木陰をつくっている。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 ただわたしには、あらゆるものを感じることができる。
 風がわたしの葉を揺らすのを感じる。
 雨がやわらかく降り注ぎ渇いた土を潤してゆくのを感じる。
 見開いたわたしの瞳はもう何も映していないけれど、わたしは世界のすべてを見渡せている。
 ある日、吸い上げた水の中に哀しげな横顔を見る。
 樹になってしまったわたしの体に頬をあて、もはやごつごつとした幹の二つの節目になってしまった私の目を、哀しげな瞳でじっと見上げる人がいる。
 そのときわたしは、自分が昔、人であったことに気付く。そして、今でも人であることに気付いてしまう。
 立派に茂った葉は急速にみずみずしさを失い散ってゆく。天を目指して伸ばした枝も、大地に力強く伸ばした根も、するすると収縮してしまう。
 やがてあらゆる感覚が戻ってくる。
 もう、わたしに世界は見渡せない。
 あの人の涙を吸って、わたしはようやく人になる。
2007/08/05/sun



5.サクラ
 学校から帰ってくるなり冷蔵庫を開けた弟の第一声は、
「げっ」
 硬直する弟の背後から覗き込んだ冷蔵庫の中は、全体的にうっすらと薄桃色に染まっていたので、わたしは「お母さんの病気が始まった」と思った。そして「ああ、もうそんな季節か」と気付き、
「春だねぇ」
 そう言ったわたしの傍らで、弟は静かに冷蔵庫の戸を閉めた。
 うちの母はお菓子好きである。というか単純に新しい物好きなので、いつの時期でも「新発売」で溢れかえっているお菓子分野に特化してしまった、というのが正しい。
 だから我が家の冷蔵庫では、今日も春季限定発売のサクラ味キットカットファミリーパッが牛乳パックの入るスペースの三分の一を占領していた。牛乳は行き場を失い野菜室に追いやられている。なにせ母がお菓子好きのミーハーである。牛乳の傷みが早くなろうと気にするような人ではない。
 サクラ味ポッキー。パイの実サクラ味。その隣に並ぶは同じく季節限定サクラ風味カフェオレ。なんだよ「風味」って。「みりん風調味料」みたいなもんだろうか、「実はサクラじゃないけど、サクラの味がするんです」。前から気になっていたのだが、サクラの味ってどんなのを言うのだろう。桜ん坊でもないし、桜餅が一番近かったりするのだけど、それって「サクラ味」じゃなくて「桜餅味」である。それよりカフェオレがサクラ風味って大いなる矛盾だ、などと言いつつ飲んでみると結構おいしかったりするから面白い。
 サクラ風味蒸しパンなんてものもある。ピンク色で見目は良いのだが、食べてみたらこれがサクラの葉ッぱとか入っていたりして実においしくない代物だったりするから要注意だ。サクラ味には当たり外れの差が激しい。不味い奴は、本気でゲロするほど不味いのだ。
 そんな新発売と季節限定品のなかにひっそりと桜餅も冷やしてある。この辺、うちの母さんの可愛いところである。母さん、そういう季節感にはこだわるのだ。
 桜餅を筆頭に「サクラ味」が大の苦手な弟はゲンナリした顔で、
「早く夏が来ないかなあ……」
 冷蔵庫に並んだお菓子のパッケージが「桜」から、弟の好きな「マンゴー」に変わる季節がやってくるのは、あと二ヶ月ほど先である。
2007/08/14/tue