365のお題:6-10



6. 卒業
 もう会えないの、と、潤んだ二つの無垢な瞳で見上げられて、数時間前の決心を揺らがせてしまいそうになる。そんなことないよ、ずっとそばにいるよ、と言ってしまいたい、そしたらどれほどラクだろうか――。いや、こんなことではいかん。今日こそ、僕は心を鬼にしなければいけない。妻との約束もある。約束を破るわけにはいかんのだ。
 僕は、言い聞かせるように、うん、とひとつうなずいた。途端に彼女の大きな瞳がさらにうるうるしてしまって、自分は本当になんて罪な奴だろうかと思う。
「……ばいばい?」
「うん、ばいばい」
「ほんとう?」
「うん。もう、ずいぶん長いこと一緒にいて、ぼろぼろになっちゃっただろ?」
「やだ」
「どうして」
「やだもん」
 でた、やだもん攻撃。本気で泣き出す五秒前。これをやられると僕にはもう手のつけようがなくなってしまうのだ。僕は慌てて付け足した。
「でも、ほら、ようく聞いてみて。『みぃちゃん泣かないで』って。『みぃちゃんの泣いてる顔は見たくないよ』」
「……」
「ほら、『みぃちゃんは笑顔が一番素敵だよ』」
「……ほんと?」
「うん。『みいちゃん、心配しないで。みぃちゃんが小学生になっても、僕はずっとみいちゃんの友達だよ』」
「ほんとうに?」
「うん。だから、みぃちゃんも、ちゃんと笑顔でさよならしなくちゃ」
「……うん」
 彼女は涙を不器用に――そして最高に愛らしい仕草で――拭いた。
「バイバイ、プー太。ほら、バイバイ、って」
「ばいばい」
 僕は、ところどころ綿の飛び出した豚のぬいぐるみをゆっくりゴミ袋に入れていった。
 零れ落ちそうになる涙を必死に我慢しようとする娘の頭をなでてやる傍らで、これで一週間、発泡酒じゃないビールが飲めるぞ、と心でそっとガッツポーズをしたのだった。

2007/08/14/tue



7.事情
 妹は将来ゴシップ大好きおばちゃんになるんだろうなあ、とおもう。妹がその日学校で起こった出来事を三割脚色して夕食の席で母に披露する様など見ていると、口下手な姉の面影などは微塵もなく、本当に血のつながった妹だろうかと思えてくるほどである。
 加えて、この年頃の女の子なら誰だってそうなのかも知れないが、妹は芸能人の恋愛事情にも詳しい。そしてドラマ好きである。バラエティー番組がひと段落する午後九時になるまでにお風呂をすませ、週間雑誌の恋愛相関図片手に、リモコンを手放すことなくテレビの前に陣取っては、「報道ステーション」を見たい父と不毛な争いを続けている。
 金曜午後九時。お風呂上りの妹が髪の毛をばさばさやりながら居間にやってきた。片手には「TVステーション」(毎週購読)と大きめのグラスに入った濃い目のカルピス。ドラマを見ている一時間、飲み物を切らして席を立つ必要のないように、氷の解ける量を計算してあるのだ。そこまでするか、と思えるほどの執念である。好敵手の父は今日は残業でいない。居間は妹の独壇場である。
 熱心に週刊誌を読む妹に、おそるおそる声をかけた。
「今日は何やってるん。『ファースト・ラブ』?」
「それは月九や」
 『ゲック』とは月曜九時代に放送されるドラマの呼び名で、ここに入るドラマは注目度が高いらしい、と最近知った。ゲックって、キムタクとかフカキョンが活躍する枠やろ、と言うと、フカキョンは古いと突っ込まれた。
「姉ちゃんはホンマになんも知らへんなあ。そんなんやから彼氏できへんねん」
 ほうっておいてほしい。わたしは他人の恋愛なんぞに興味がないだけである。そういう妹こそ、男友達の数こそ多けれど彼氏なる人物はいないのである。
「金曜九時は『三年E組銀八先生』や」
「へえ」
「でもな、そんなんどうでもええねん」
 と、なぜか妹はここで声を潜めた。
「お目当ては金曜十時枠や」
「へえ?」
「今日はな、『男と女の情事』があんねん」
「へえ?」
 わたしは少し考えてから、妹に聞いた。
「事情、じゃないん?」
 妹は次の言葉を発しようとぱかっと口を開けたまま、固まってしまった。
「はあ?」
「だから、『男と女の事情』やろ」
 言い間違い? と聞いたわたしの言葉に、姉ちゃんホンマになんも知らんねんなあ、とカルピスを一口すすって、濃いわあこれ、とつぶやいたのだった。

2007/09/05/wed



8.名前を呼んで
 大好きな人の側にいたいと思うのは、わがままだろうか。
 彼はいつも気難しそうな顔をして、わたしのことをにらんでいる。恐い顔をしていても、わたしは彼が本当はとてもおびえていることを感じているので、一定距離を保ったまま、精一杯の笑顔でお迎えする。今日こそは近づいてきてくれるはず、と信じて待っているけれど、彼はやっぱりわたしの姿を認めると、ぷいと顔を背けてしまう。
 一度、どうしてもあきらめきれず、自分から側に寄ったことがある。彼はわたしを叩くでも追い払うでもなく、近寄ってきたわたしをじっと見下ろしただけだった。わたしは自分からすごすごと退散した。
 そのときの彼の表情が忘れられない。あの、まるで得体の知れないケダモノでも見るかのような、冷え切った瞳。
 失恋ばかりしているわたしのことを、友達のユータはずいぶん慰めてくれる。ユータは優しい。ユータの側ではわたしはたくさんの愛情をもらえることを感じる。だけど、あの人に好かれていないことがわたしにはどうしようもなくさびしいのだ。
 いつものようにわたしが彼を遠巻きに見つめていると、ふと、彼が顔を上げた。ちらりとこちらを伺っている。わたしは反射的に立ち上がろうとして、思いとどまった。だめだめ、駆け寄ったりしては、また彼に嫌な思いをさせてしまうのだから。
 案の定、彼はまた顔を背けてしまった。
 しかしそのとき、それまでわたしの側にいたユータが立ち上がり、彼の背を叩いた。
「ねえ、名前くらい呼んであげてよ」
 ユータの突然の行動に、わたしは顔から火が出そうな思いだった。悪くすれば、もう彼の姿を遠巻きに見ていることすらできなくなってしまうではないか。
 わたしの心配と裏腹に、ユータは彼の肩を揺さぶり続ける。
「ねえ」
「ああ」
「ほら、噛み付いたりしないから」
「うーん」
「ねえ、お父さん」
 ここで、彼は意を決したようにくるりとこちらを振りむいた。一瞬の緊迫の後、彼はゆっくり息を吸い、

「ハナコ!」

「ワン!」

 わたしは力いっぱい返事して、彼の元に駆け寄った。

2007/09/05/wed



9.はじめての日
 はじめて おふろに はいります
 はじめて ごはんを たべるのです
 はじめて くつしたを はいたなら
 はじめて おひさまと ごあいさつ

 はじめてぱぱの おひげにさわります
 はじめてままに だっこしてもらいます
 はじめて 息を すいました
 はじめて じぶんで すいました

 はじめてづくしの あかちゃんは
 はじめていきる 世界とであい
 おおきなこえで なきました
 うれしなきに なきました

2007/09/18/tue



10.生まれる前
 その昔、この地で戦があったのだという。
 それはそれは、大きな戦争だった。理由はよく知らない、ある日ラジオをつけると、そういうことになっていた、と村のおじさんが言っていた。反対することも、逃げることもできなかったし、そうしようとも思わなかった。
 国の命令で村の若者は戦場へ狩りだされた。大半の若者が戻ってこなかった。村でも大勢の人が空襲の被害にあった。逃げ遅れた年寄りが焼け落ちた家の下敷きになって死んだ。赤ちゃんは十分なごはんが食べられずに泣くことすら忘れていた。
 わたしのお父さんやお母さん、それからかろうじて空襲から逃れた村の人たちは、命からがら近くの森へ逃げ込んで、戦争が終わるまで息を潜めて暮らしたらしい。
 何でも食べたのよ、とお母さんは言う。木の実はもちろん、おいもの根っこやたんぽぽの葉っぱ。しまいには木の皮をむいた。苦くて固くて、食べられたものではなかったけれど、食べないよりはましだった。きのこは恐くて手が出なかったけれど、中には悪いきのこを食べて、死んだ人もいたらしい。
 やがて、戦争が終わった。始まった時と同様に、ある日ラジオをつけるとそういうことになっていた。失ったものは数知れない。後に残されたのは何もかもが燃え尽きた大地と、飢えて骨と皮だけになってしまった人たちだった。戦争が終わった後でさえも、怪我や飢えでたくさんの人が死んでいった。むしろ、それから戦争が始まったと言っても良いくらいだ、とお父さんは言う。自分の命さえも支えられない状態のお父さん達に、ひとつの村をやりなおす力はもうほとんどのこされていなかった。
 それでもなんとか頑張っていけたのは、新しい命が生まれてくるからだ、と皆は言う。おまえ達が生まれてくることを知らなければ、私達はただただ死にゆくだけだった、と、お父さんはわたしの頭をなでる。

 今、この地で戦争はない。
 ご飯は三食おなかいっぱい食べられる。
 タイルの歩道でわたしたちはなわとびをする。
 村の中央の噴水で水浴びをする。
 レンガの家の暖かい毛布のなかで、わたしは眠る。
 お父さん達が命がけで作った村で、わたしは生きている。
 戦争があったときのことは、わたしは生まれていなかったのでよく知らない。
 けれど、知らなきゃいけないことがある。

 ――その昔、この地で戦争があった。

2007/09/19/wed