映  画
21.アリスインワンダーランド// 20.パコと魔法の絵本// 19.嫌われ松子の一生// 18.アマデウス// 17.劇場版デジタルモンスター ぼくらのウォーゲーム!// 16.海がきこえる// 15.時をかける少女// 14.サマーウォーズ// 13.トゥルーマン・ショー// 12.アイ、ロボット// 11.カッコーの巣の上で// 10.オール・アバウト・マイ・マザー// 9.シンドラーのリスト// 8.父親たちの星条旗// 7.硫黄島からの手紙// 6.カリスマ// 5.トータル・フィアーズ// 4.ウィリーの蒸気船// 3.東京ゴッドファーザーズ// 2.ボーン・アイデンティテイ// 1.キートンの結婚狂




舞  台
4.ちっちゃなエイヨルフ// 3.カナリア‐西條八十物語‐// 2.大江戸ロケット// 1.マイアミにかかる月









映  画


21.アリスインワンダーランド
ティム・バートン/2010/米

世界観的には、「パコ〜」に似ているのかな、と思いました。現実とCGアニメの融合。気ちがい的などぎつい色遣い。ただ、3D眼鏡のおかげで、色鮮やかな世界が体験できなかったことが残念です。

「これは私の夢なんだもの」とつぶやくアリスに、「ワンダーランド」もとい「アンダーランド」の住人達は首を振る。実際にはあり得ない六つの存在を信じることで、強大な敵に打ち勝って、アリスは元いた場所に戻ります。
夢見がちな少女アリスが、別の異なる夢のなかを生き始めるまでの物語なのだと思います。
そんなことを考えていた私は、映画を見ている間、しきりに「歪みの国のアリス」をフラッシュバックさせておりました。

なんていうかもう、衣装が素晴らしすぎる。アリスの赤いドレスといい、マッドハッターのスタイルといい。あの衣装が見られただけで大満足。
20.パコと魔法の絵本
中島哲也/2008/日本

映画全編が気が狂ったかのような色彩に、現実とCGの入り乱れた映像美。強烈なインパクトを残すキャラクター達。不思議の国のアリスにナツメグかシナモンみたいな香辛料まぜて実写化したらこうなるんですきっと。そしてパコ役のアヤカ・ウィルソンがかわいらしすぎる。
何故かこの映像の美しさを見ているだけで泣けてきた。なんでだ。
19.嫌われ松子の一生
中島哲也/2006/日本

最初小説で読み、そのときはボロボロ泣きました。狙ったように不幸に見舞われ続ける松子が、終の棲家となったボロアパートの一室で、壁に向かって「なぜこうなった」と問うシーンが印象的でした。 さてこの映画。片平渚で笑いこけました。なんだこの豪華キャスト。 全編ミュージカル仕立て。不思議な髪型で踊り転げる中山美紀の姿がかわいらしい。それでいて、ものすごく、せつない気持ちになるのです。現代の主人公と、三十年前のおばさんが生きていた時代が、ところどころでリンクする。誰かに振り向いてほしくて生きている姿が、せつなくて、滑稽。
18.アマデウス
ミロス・フォアマン/1984/米

演劇部関係で視聴。楽しそうに音楽を奏でるモーツァルトの姿が大変印象的でした。そしてまた、「凡庸なる人の守り神」たるサリエリも。天才の頭とはどうなっているのでしょうか。
最後の台詞が重たいです。でもその重たさすら、キチンと受け止めていない気がしています。(10.02.10)



17.劇場版デジタルモンスター ぼくらのウォーゲーム!
細田守/2000/東映アニメーション

細田守と聞いて、YOUTUBEにて視聴。
びっくりしました。ほとんど「サマーウォーズ」だった。仮想空間の雰囲気、ネットの混乱により全世界までもが混乱していく様、仮想現実にアクセスするために田舎で人脈を駆使する登場人物。核弾頭が近所の池に落ちてくるというオチも、完全にサマーウォーズ。仮想現実が大変ヤバイ事態だというのに、現実世界ではケーキなんか作ってしまっているあたり、まさに。 大変たのしく見れましたが、子どもたちはこの映画、楽しく見られたんだろうかとやや疑問。だって全員が活躍する映画じゃないし、「ワルモン倒した!やったね!」以上のものが詰め込まれているような気がするし。まぁ、大きなお世話かもしらん。(09.11.14)

16.海がきこえる
高畑勲/1993/スタジオジブリ

東京から高知の高校に越してきた美少女。主人公の友人は彼女に一目ぼれしました。主人公はそんな友人を影から見守る一方で、傍若無人な彼女の態度にあきれはてながらも、彼女に惹かれていきます。
高校を卒業し、大学生になった後、彼女と再会した主人公が、「ああ、やっぱり僕は、彼女のことが好きだったんだ」と気づくまでの話。

「時をかける少女」を観た後に、「そういえばジブリにも三角関係の映画があった」と思いだしてひっぱりだしました。恋愛なるものは、基本的に三人で行うものだそうです。「海がきこえる」はその典型例だと思います。多分この主人公は、一番親しい男友達が恋をしたことで、自分も恋をしたんだと思います。男友達の恋に「あの女はお前が恋するようなやつじゃない」と抱く感情って、もう完全に嫉妬です。
「高校の三角関係」だけを取り出せば、「時かけ」と似ているとも取れますが、内容は全然違っておどろきです。「海がきこえる」に描かれる高校生は、とても「現実っぽい」です。あと台詞や行動がいちいち「臭い」です。「現実っぽい」と「臭い(物語めいている)」は、相容れないもののように見えますが、「物語のような現実を生きている」人々にとっては、とても自然なものでしょう。

改めて、「時かけ」の不思議さと不自然さ、それからジブリのリアリティを見た気がしました。細川守監督は、「ハウル」の監督に一時は抜擢されながらも、計画が頓挫してしまったそうです。細川版「ハウル」、見てみたかった気もします。

15.時をかける少女
細川守/2007/マッドハウス

「サマーウォーズ」と全く異なる点は、「世界観の狭さ」だと思いました。この映画は、基本的に三角関係を飛び出すことはありません。一方「サマーウォーズ」では、ネット上を舞台にありとあらゆる人々と交流する可能性があるわけです。ほぼ家の中だけで話が進む「サマーウォーズ」に対して「時かけ」のほうがまだずっと動いているのに、なんでか狭いのです。不思議です。

東浩紀は、自身のブログに「主人公はゲームをリセットする感覚でタイムリープしている」と語りました。マコトの口癖となる「私がなんとかする」――「失敗したってやり直せばいいんだ!」という、この感じ。なるほどなあ、と思いました。それでいて、主人公がやりなおすはずの過去は、毎回どこか異なっているのです。主人公が過去を何度生きなおしても、その時間を生きる人たちにとって、それはいつも新しい現実だからでしょうか。

「サマーウォーズ」もそうでしたが、これは「普通の高校生」が「世界」を変える話なのかもしれない、と思いました。
時をさかのぼって、マコトはすべてが始まる前に戻ります。コウスケとチアキとの友情を、そのまま続けることだって出来たはずなのに、マコトはチアキに、すべてを告げます。マコトはいつも、タイムリープの能力を「なかったことにする」事にむけて使っていました。それを、「起こってしまった」ことを受け入れることは、その後の世界も変わってしまうはずです。

助走をつけてジャンプした先の着地点は、マコトにとって、違う<現実>。「やりたいことができた」と語るマコトには、見えない未来の<現実>が、すこしだけ、リアルになっていたんじゃないかと思いました。

14.サマーウォーズ
細川守/2009/日/マッドハウス

多分近未来。世界中の人々が「OZ(オズ)」と呼ばれるネットワークに常時接続しており、各々が「アバター」と呼ばれる分身をネット上に持ち、買い物や仕事をしています。ところが、「OZ」のアバターが、人工知能「ラブマシーン」によって乗っ取られてしまいました。「OZ」が正常に機能しなくなり、全世界は大混乱におちいります。
主人公は、数学オリンピックの日本代表になり損ねた高校生。先輩の「彼氏代役」として、先輩のおばあちゃんの家にやってきました。陣内(じんのうち)家のみなさんと力を合せ、「ラブマシーン」に立ち向かいます。

大変楽しい映画でした。わざわざレディースデーを狙って見に行きましたが、これやったら三千円でも見に来たる! というくらい、大満足でした。演出が大変好みでした。「仮想現実」のアバター達が生き生きと動きまわる様が観ていてとても面白かった。
「サマー〜」の主人公は、数学だけが取り柄のさえない男子高校生。その姿はいかにも「おたく」です。そしてこれは、「おたく」が「世界崩壊」を食い止める話です。また、仮想現実と現実のあり方は、「こうあればいいな」と感じるものだとおもいます。ハイテクノロジーに対して、主人公たちは、コミュニティの繋がりが密接な旧家で過ごしています。私たちの理想を具現化したら、こんな感じになると思います。

「仮想現実」と「現実」の対比は『マトリックス』も使った手ですが、『マトリックス』は二つの世界がまじりあうことがテーマとなっていました。一方サマーウォーズは、「仮想現実」はハードの中から出てくることはありません。ただし、「仮想現実」は実生活に深くかかわり、それなしでは生きていけない、というところまで浸透している世界です。どちらの映画でも「分身」なる存在が活躍しますが、「仮想現実」の扱いはかけ離れています。「サマーウォーズ」において「仮想現実」は、あくまで「仮想現実」でしかありません。

ところが。

カズマはその「仮想現実」の中で、ゲームの王者「キング・カズマ」として君臨しています。ラブマシーンに敗れてショックを受けるカズマに、おとなは「どうして? それってただのゲームでしょ?」と言い放ちます。でも、そこまで一緒に映画を観ていた私たちは、全力で「それは違う!」と答えます。それは、作中たびたび出てきた甲子園の風景とかさなります。それはテレビの中の風景であり、ほとんどの人は実際に体験していないのに、ただ知った人物が出ているから、という理由だけで熱中してしまう姿に似ています。
『「OZ」は、ただの仮想現実じゃない』
私たちは「現実」と「仮想現実」を明確に分けたつもりでいます。でも、なにが「現実」で「仮想現実」なのかは、どうでもよかったのかもしれません。だって、「仮想現実」の中での行動は「現実」とリンクしているのだから。
ここ一番の勝負に「かけごと」が使われていたのも面白かったです。スポーツもそうですが、一般的に「かけごと」は、命を賭けるものではありません。せいぜいお金です。なのに、人々は命をかけて「かけごと」をするのです。個人情報が詰まったアバターを乗っ取られるということは、「OZ」がすべての主軸となったこの世界ではまさに命を握られるのと等しいことです。でも実際に死にはしません。当然ながら。
主人公たちが「OZ」を救う必要なんてどこにもなかった。けれど、かれらはお茶の間で、「命がけで」戦った。最終的に本気の命がけになったわけですが、なんだかそれは、大変不思議な光景です。
「なぜそこまで必死になるの?たかが仮想現実に」
たかがじゃない、そこは楽園ではないけれど、僕たちの大事な現実のひとつ。なのかもしれない。

栄おばあちゃんは、黒電話で各方面の知人に連絡をとります。物語の根幹をなす「OZ」を利用しない、ダイヤル式の黒電話です。「OZ」の混乱に頭を悩ます人々を激励するため、おばあちゃんは古いアドレス帳を引っ張り出して、いろんな人に電話をします。
この物語のテーマは「つながり」。エンドロールの手をつなぐ二人の姿が印象的。だけど、これは「やっぱり手をつなぐのが一番」的な教訓アニメではもちろんなくて、むしろ世界中の顔も知らないいろんな人とのつながりがテーマ。私の行動が他の誰かに影響を与えているかもしれない、そんな世界の不可解さを感じる映画じゃないのかな。そしてそういう世界になったということを改めて感じる話だったと思います。

物語の最後。『家』に残ろうとしたのは、部外者であったはずの、侘助と健二でした。落下する人工衛星の標的は我が家で、自分達さえ迅速に避難すれば誰も死なずに済む。逃げる時間もある。
なのに、二人は最後まで、人工衛星の軌道をそらせるために全力で戦います。

本当に大事なのは、血縁なんかじゃない。肌のぬくもりだけでもないんだ。

13.トゥルーマンショー
ピーター・ウィアー/1998/米

ハリウッドに造られた巨大なスタジオ、その中で、一人の男の人生が、全世界にむけてテレビ放送されている。男の人生は完璧に「演出」されており、男はそのスタジオから逃れ出ることはできない――いわゆるディズニーランド構造。私たちは「天国」のなかで、外の世界のことを何も知らずに、自分は自由だと誤解しながら(そして誤解していると気付きながらも、何ものにも代えがたい安心感を得ながら)生活しています。まさにそれを示す物語。
もっとコメディーテイストなのかしらと思ったら、意外としっとり見せるタイプの映画でした。主人公が町から出ようとするたびに、渋滞だったり放射能漏れ事故だったりと、いろいろ起こるのが面白かった。そこを突破するもしないも、本人次第、本人の出ようとする決意と行動力だけなんだ、ってところが。巨大スタジオを常に監視する、見えない「かみさま」の目をくらませるために、画策する主人公が面白かったです。
印象的なのが、「トゥルーマンショー」が放映終了した後、観客たちは「さて、何かほかの番組があるかな」と違うチャンネルを探したこと。夢中になれる物語なら、なんでもいいのかな。

12.アイ、ロボット
アレックス・プロヤス/2004/米

「丘の上に立つ人」
このヴィジュアルだけで聖書を連想するのは私だけではないはずです。唯一、「特別なロボット」として作られたサミーを、他のロボットが見上げるラストシーンは大変印象的。監督はあの図を実現するためにこの映画を撮ったんじゃなかろうか、ってふと思った。違うけど。サミーのようなロボットが「丘の上」に立つことは、たぶん人類にとっては福音であるのでしょう。

タイトルと雑誌の紹介文から「人間であることとロボットであること」みたいなものがテーマになるのかと思ったら、全然そんなことありませんでした。一応触れられてはいたけれどメインではありませんでした。まあ、それが主軸でも、つまらない映画になるかも知れませんが。
気になったのが、「特別なロボット」として作られたサミーの持つ思考回路が、「造られたもの」なのだということ。この世界のロボットは、アシモフの小説に登場する「ロボット三原則」を破ることはありません。サミーは「人を殺すロボット」として登場しました。人間がロボットに与えた究極の制限を、破ることができるロボット。それは人間にとっては脅威です。
一方で、物語の黒幕として登場する人工知能は、論理的思考によって人を殺します。

「人間は自滅の道を歩いている」
 ↓
「そんな人間をすくうのがロボットの役目」
 ↓
「ロボットが人間を守ろう!(だがそのためなら多少の犠牲は仕方がない)」

という三段論法です。(ちなみに、特別なロボット・サミーはこの思考を「こころがない」と拒絶します。さすが「特別」なだけあって、サミーの思考は合理的な理屈ではありません。)
でもこの三段論法、どう考えても成り立ちません。「人間を救いたい」から「人間を守るためならどんな犠牲も厭わない」には飛ばないからです。ロボット三原則の言う『人間』は、「個」としての人間であり、「種」としての人類ではないはずです。だからある意味、生みの親たる人間に与えられる形で「こころ」を習得したサミーより、ぶっ飛んだ三段論法で人間を殺す理論を確立した人工知能のほうが、数倍凄いと思いました。感情の複雑さ如何ではなくて、そういうぶっ飛び理論を自力で構築できたということは、サミーのような感情を持ちうる可能性もあるわけで。

11.カッコーの巣の上で
ミロス・フォアマン/1975/米

「刑務所での労働を逃れるために、精神疾患を装い、精神病院に入院した主人公」
↑この設定だけで胸が躍るというものです。
言外の規律に統制された集団に混入した「異物」という設定は、黒沢清の『カリスマ』と似ています。『カリスマ』に登場した森の秩序は、主人公の来訪によって決定的に乱され、乱しっぱなしです。対してこの作品内で、秩序は乱され、また新しい何かを生み出しているようです。
「個人の尊厳」がテーマの映画である、と、よく語られています。そうなんだろうか、とも思いました。ここもディズニーランドの一つにすぎないのではないでしょうか。自主的に入院している患者たちにとって、ここは心安らぐ場所の一つだろう。秩序に逆らわなければ、平穏に暮らしていけるのだから。それを、外部から「これは不自由だ!」と自由を押し付けられることの方が、よっぽど不自由です。
撮影時期は1975年ですが、この映画のラストには「希望」があります。精神病院は(たとえそれが死という形であっても)「抜け出せる場所」だと描かれているからです。八十年代、イーグルスが歌った「鍵は自分の手の中にありながら出ていくことができないカリフォルニアのホテル」とは、決定的に異なります。

10.オール・アバウト・マイ・マザー
ペドロ・アルモドバル/1998/西

色彩が大変魅力的でした。バン! と画面全体に広がる、赤い色。強い色です。外国の、特にスペインとかイタリアの映画は、色彩が大変魅力的だと思う。パプリカみたいな鮮やかさに惹きつけられました。
主人公の言葉がどこまで本当のことなのか、見ている途中で分からなくなりました。最初は「臓器斡旋員」として登場します。でも、「元料理人(嘘)」だったり、「昔はアマチュア舞台役者(これは本当)」だったりして、この女性はいったいいくつ顔を持ってるの?! という混乱に陥りました。でもそれは周りの女性にも言えることだったりする。そして昔観た、今敏の『千年女優』を思い出して、ああそうか、いくつもの顔を持つのが女って生き物だ、とか思いました。
強く逞しく生きる女性、あるいは女性になりたい人達の話。よくできたおとぎ話のようでもあるし、こういう話は案外そこらじゅうに転がっているんだろう、とも、思います。これはたぶん監督の範疇外ですが、母になることの重みとか、いろんな人と交わりながら生きる難しさを垣間見たような気持になりました。

9.シンドラーのリスト
スティーヴン・スピルバーグ/1993/米

どうでもいいんですが、私はこの映画でスピルバーグの本気を観ました。
映画強化月間(事後的に命名)の三作目。第二次世界大戦中、数千人ものユダヤ人の命を自らの工場に雇い入れることで救った男の話。伝記的な作品です。原作の小説を二年ほど前に読んでいたので、お話事態は大変わかりやすいものでした。

小説を読む前、このシンドラーという人のことは、私は「慈愛に満ちた人」だったと思っていました。そして、映画も小説も共通していたのは、「シンドラーは富や女を欲した、普通の人間だった」ということ。無一文で都会にやって来たシンドラーは、戦争勃発による物資不足に目をつけて、ほうろう会社を設立することにします。そして、人件費の安いユダヤ人を雇うことでコストダウンを実現しました。シンドラーは、自分の工場の従業員を雇うことでユダヤ人を「守った」とされていますが、実はそんなことじゃなくて、「自分が雇って教育した従業員を勝手に殺すのは許さん」という、利害で動いていました。
だからこそ、シンドラーがラストで、「この車を売ればあと十人は助けられた」「ナチス党員のバッヂは金だから、二人、いや一人は救えた」「一人! あと一人助けられたのに」と泣き崩れるシーンが感動的。やや語りすぎでしたが。三時間半くらいある長い映画なので、そこまで観てきたこちら側は、「言われなくても分かってるよ!」という気分になります。

全編を通して白黒。ときどき、炎や、血や、赤い服の少女といった、部分だけで色が使われます。それが大変印象的。全編モノトーンなのに、映像的な貧しさや物足りなさは一切感じません。「生」と「死」を対比してるようで、この映画の魅力のひとつ。人形浄瑠璃とかでもそうなのですが、表現のすべをわざと失わせることで、より豊かな表現ができるようになる現象は、しばしばあります。この映画はその手法で成功した作品のひとつです。

小高い丘の上から、街を見下ろすシンドラー。その視線の先には、ユダヤ人達が暮らすゲットー(高い壁によって隔離された集落。ユダヤ人たちはここに隔離されたのち、強制収容所に送られました)があります。ドイツ軍による迫害で逃げる人々、その流れに逆らい、ユダヤ人の赤い服の少女が歩いています。ほとんど台詞もない、音楽だけの静かなシーンです。
彼が何を見つめていたのかは、分かりません。シンドラーは、その少女と、強制収容所の遺体置場で再会します。
精神的な表現が多いことが特徴。やっぱりそれも、白黒の力だ。

音楽と、音楽が生み出す作品の空気がとても素敵。アカデミー賞に輝いただけあります。

8.父親たちの星条旗
クリント・イーストウッド/2006/米

「硫黄島〜」と対になっている、というもんだから、てっきり全編爆撃音が響き渡るような映画かと思っていたら、全然違って驚きました。どちらかというと、こちらは「硫黄島の、その後」の話。硫黄島に星条旗を掲げる六人の兵士の写真、あまりにも有名なこの写真にまつわる話です。

メディアの力ってスゲー、って映画でした。日本の大本営が、新聞やラジオで大ウソを流していたころ、アメリカでも一枚の写真に映った人々を「英雄」に仕立て上げ、戦争の資金集めに必死になっていた。意外な共通点だな、と思いました。
「硫黄島〜」が、伝記的な作品なのだとしたら、こちらは少々、解釈や見方が人によって異なるのではないかな、と思いました。色んな戦争映画や道徳作品を小学生時代から見てきた我々にとっては、「硫黄島〜」はとても見慣れたストーリーの一つです。ただし、内容は「戦争は酷いんだよ、やっちゃいけないんだよ」ってものではなくて、「こういう人間がいたんだよ」って感じなので、下手な道徳啓発作品よりも数百倍見やすいのですが。(なぜか日本の戦争映画って「戦争は酷いんだよ」的語り口のものが多かったように思う……これも偏見?)

もっとも、「こんな人間がいた」と語るのは、『硫黄島』も『星条旗』も変わりありません。戦争という大味な枠組みではなくて、個の単位から見つめた作品であったようにおもいますが。
最近は、日本の戦争作品も、そういうものが増えてきたようですね。「酷いんだよ、やっちゃいけないんだよ」ではなく、「こんな生き方をした人がいた」。今年(2009年)8月に放送された『アンネの日記』『赤紙を配達した男』『元海軍 の証言』って、その辺の系列って感じ。あと『夕凪の街・桜の国』も。

これは、うがった読み方かもしれないけれど、第二次世界大戦の「英雄」に、「俺たちは英雄じゃない」と言わせる映画がアメリカの国で作られたのが、ちょっと驚きでした。「英雄」は、硫黄島の兵士たちでもあるだろうし、大戦の戦勝国たるアメリカでもあったはずではないでしょうか。

戦争ってどこでも変わらないなあ、という思いを抱きました。監督自身、そう思ったそうですので、この二つの映画の全編に、その空気があふれているんだと思います。
いろんな戦争があるんだなあ。

7.硫黄島からの手紙
クリント・イーストウッド/2006/米

この映画が外国人監督の手によって生み出されたことが信じられませんでした。
といったら、とんでもない偏見になるのかな。

とにかく、よくもまあこんな作品が作れたな、と思いました。これは当然、最大級の称賛の言葉です。
昔々、私は「ラストサムライ」のラストシーンをみて甚だ違和感を感じました。最期まで武士道を貫き死んだ日本人に、それまで闘っていたすべての兵士が足をつき頭を垂れるワンシーン。一番感動的なはずの場所なのですが、「ありえねぇ!!」と思いました。高台にいる人々が、丘の下で死んだ武士に土下座する、構図もおかしかったし、「そこで土下座はしない」という不思議な気持ちがありました。

んで、今回の「硫黄島からの手紙」。そういった不自然さ――つまり、不思議な偏見と誤解が、少なくとも見当たらなかった。「ラストサムライ」って、「SAYURI」とかもそうだったけれど、外国人受けする『ニッポン』という国の話の感じがしていました。そういうものが一切なくて驚きました。日本で作られた、戦争映画を見ても、中村獅童演じる伊藤のような人物はいる。たぶん今なら、西郷みたいな人物も登場したはずだろう。なんか、そういうところで、きちんとしていたのが、大変魅力的でした。
もっとも、実際の「戦時中」を知らない私の目からしたら、「硫黄島〜」だろうとその他の映画作品だろうと、イメージの中の「軍人」や「戦争」でしかありません。大差ないと言ってしまえばそれまでですが、この「硫黄島からの手紙」には、日本の「歴史」と、その歴史の中で生きた人々にたいして、最大限の敬意が払われていました。

戦艦が見えない海を見て(よそにはものすごくたくさんの船と飛行機が待ち構えていることは知っているし、既に島は米軍の手の中にあることも知っているのに)「ここは、まだ日本か」と問い、「はい」と答える精神。そんな姿があったのが、びっくりした。

この作品とセットになった「父親たちの星条旗」も、そういう意味で、すごい映画。

あ、あと最後に一言。
渡辺謙渋い。二宮くん男前。なんて言うか良い役者でした。

6.カリスマ
黒沢清/2000/日本

「世界の秩序を回復せよ」
一体なんなのでしょうか。はなはだ不思議な気分にさせられる映画です。
その森では、一本の木を巡り、絶妙なバランスを保って人々のパワーバランスが形成されている。そのバランスは、一人の男の出現によって崩れ去る。最初、役所浩二演じる主人公は「こちら側」にいたと思います。それがどんどん、向こう側に遠ざかってしまって、こちら側の私たちは得体の知れない恐怖を覚えます。
その森に生える樹「カリスマ」は、周りの木々を枯死させていくことで、自分が生きながらえてきました。森を守ろうとする団体は、カリスマを伐り倒そうとしますが、一人の少年がそれを阻止しています。一方、森に暮らす女性は、森の草木を守るふりをしながら、森に毒を捲いて木々を枯らしています。
そこに主人公がやってきました。彼の出現により、三者のバランスは崩れていきます。
やがて、カリスマは切り倒されてしまいます。しかし、主人公は新たなカリスマを見つけます。そして、カリスマを守るために人を傷つけ、その人を自ら介抱します。

もう、なんなんだろうか、この映画は。
観終わったあと、へんな気持ちになることは確実です。ただし、その気持ちは決して「不快」ではありません。

5.トータル・フィアーズ
フィル・アルデン・ロビンソン/米/2002

モーガン・フリーマンが好きです。それに尽きます。
アメリカとロシアの核戦争の危機を描く話。劇場で見たのですが、当時中学生であったため、さっぱり理解できませんでした。見返してみて、「なんちゅー作品を作ったんだ」と驚愕。当時も、ロシアが悪者すぎる、というような批判があったようです。一見しただけだと、ロシアはかなり凶悪な国家として描かれています。主人公もアメリカ人なので、余計でしょう。

でも、よくよく見ていると、アメリカだって結構悪い国として描かれています。そもそも、なぜ核戦争の危機にさらされたのかというと、第三帝国の復活を画策する裏の組織の陰謀。彼らがアメリカから輸出された核を改造し、秘密裏に製作した核兵器でアメリカのベースボールスタジアムを爆破したことが原因です。だから、「悪役」は実際にはロシアでもアメリカでもない「ありえるかもしれない架空の団体(←テロ組織?とはちょっと違う感じがしますが)」です。あり得るかもしれない、ってところが、この映画最大のポイントです。
大抵深夜帯でしか放送されていなかったのに、何故、地上波のゴールデンタイムに放送されたのか。オバマ大統領の演説が影響しているのかもしれません。作中でも、大統領は「核兵器」と「平和」について言及していましたので。

単なるヒーロー映画じゃないよ、ってところが、楽しめる映画です。
被爆した市民たちの描写がリアルだった割に、爆心地付近を飛んでいた(主人公を載せた)ヘリコプターが無事だったり、なんていうか、本来死んでいるはずの人々が爆心地付近にいたにもかかわらず無事だった(後遺症ももちろんない)のは、なんだかなあ、って感じです。当時、ヒロシマ・ナガサキからも「原爆はそんなもんじゃないよ」って声もあったようですが、そもそもこの映画の趣旨が違うところにあるのでしょう。アメリカによってこういう映画が出来てたってところが、重要ではないでしょうか。

4.ウィリーの蒸気船
B・キートン

白黒サイレント映画。大変面白かったです。「濁流危機一髪!」ってのも観たが、断然こっちのが面白かった。新型蒸気船がでてきたせいで、渡し船のお客さんがすっかりとられた旧式蒸気船の船長。彼のもとに、幼くして別れた息子が帰ってくるという。おれの後継ぎになるのだから、きっとたくましい男に成長しているに違いない――しかし、駅で待っていたのは、さえない小男のウィリーだった。
なんかねー。ユーモアの鉄則を一個ずつ踏襲しているような映画でした。大変面白い。駅で待ち合わせするのに、「白い花」を目印にするんですが、駅には白い花を胸に刺した男がわんさと待っていたりするのです。主人公ウィリーは、これでもかってくらいどんくさい。段差があれば逐一こける、落ちる、滑る……。前半で描かれる一連のしぐさが、すべて後半、嵐の場面に還元されていくのです。こけて滑って失敗ばかりだったウィリーが、旧式蒸気船でお父さんを助けに行ったりする。
「内」に入るためのドアを開けるたびに壁が崩れてドアだけが残される。ここはどこ? わたしはどこに立っているの?転換が面白い。

3.東京ゴッドファーザーズ
今敏/2003/マッドハウス

「お前とおれとは赤の他人だ」と歌うエンディングテーマが好きです。彼らは全員、血もつながっておらず、だれもかれも「見捨てられた」人たちであるのに、とても家族なのです。だけど、彼らにはそれぞれ「本当の」居場所があるのです。
この、ちぐはぐな家族という関係に、わたしはジブリ映画版「ハウルの動く城」を思い出します。ハウルはラストシーンで「なんだ、また家族がそろったじゃないか!」というような旨の(忘れた)台詞を言います。お前とおれとは赤の他人。なのに一つ屋根に住んでいる不思議。
血がつながっていようと、そうでなかろうと、我々は全然異なる個体であるのに、血縁というあやふやな(なにせそれが本当に確かなものなのか、我々は確認できません。DNA鑑定すらそれを特定できないことがあるのだから)絆で結ばれているのです。しかし、「だから家族は大事」と説く物語では無いと思っています。「ハウル」も、「ゴッドファーザー」も。
いくつもの奇跡を起こし彼らは進む、赤ん坊を本当の両親に届けるために。あなたと出会えた奇跡、なんてくさい言葉がありますが、家族になる奇跡って、もっとさりげないもんだと思う。

2.ボーン・アイデンティティ
ダグ・リーマン/2002/米

記憶喪失の男がひとり。身体に刻み込まれた超人的な身体能力だけを頼りに、自分が何者かを探る旅が始まる。
ラストのどんでん返しが凄まじい。テレビの記者会見で語られる、「今回の実験の成果」――彼が劇中で紡いだ物語とは何だったのだ?
正義でもない。
悪でもない。

1.キートンの結婚狂
B.キートン/1929/米

しがないクリーニング屋は売れっ子舞台女優にぞっこん夢中。そんな彼がひょんなことから、彼女と結婚することになった。とまあ、「ありえねー」感じなドタバタ喜劇。
何が一番すごいって身体能力。白黒映画の時代、スタントは自分だし、CG技術なんかありもしない。そんな中で、走るヨットの上でどったんばったん、ロープ一つにつかまって、何度海に投げられてもまたヨットの上に戻ってくる。凄いなあ。





戯  曲


4.ちっちゃなエイヨルフ/イプセン

NHKで観てました。
息子が溺死した。妻は悲しみにくれるが、妻とともに悲しみを分かち合うはずの夫は、妻よりも妹を求めている。
その妹は、兄の束縛から逃れるために列車に乗った。
イプセンの物語は基本的にバッドエンドが多い。いや、何をもってバッドと言ったらいいのかわからないけど。近代劇は内面描写が多いというが果たして。イプセンの作品は、「形はないけれどあるもの」が多々出てきます。囚われの「野鴨」しかり、水底にたゆたう「エイヨルフ」しかり。
会話劇なので、とても静かな舞台。場面転換も二回だけ。役者の表情がすごかった。


3.カナリア-西條八十物語-/斉藤憐

演出経験作品。私は芝居を作るにあたって、わかりやすく「夫婦」を主題にしていました。もちろん、晴子さんへの愛のものがたりでもあるのですが、それ以上に、本当の主人公は「時代」だったと思っています。八十と共に生きた時代です。この台本を演出するために、いろいろと本を読みましたが、大衆の心を晩年まで若い精神で歌い続けた八十の姿が素敵でした。
お金にならない「純粋詩」の世界を放逐し、「流行歌」を書き続けて大金持ちの売れっ子作家となった八十を疎む声は、文壇でも盛んのようです。そのため、八十に関する研究論文って、本当に少ない。っていうかほとんどない(今も、時代を代表する流行歌作家といったとき、「中山晋平」の名前は出てくるのに、「最上八十」ってもひとつなのです。だから、そもそも彼を題材にした戯曲というのがレアすぎるのです)なので、八十が書き残した大量の詩篇とエッセイから、八十のことを知って行きました。その作業は、おそらくこの本を書いた斎藤憐という人も、順番は違えど同じ道を歩んでいるかもしれない、と思うと、すごくわくわくしてました、演出やりながら。
「時代を駆け抜けた連中の、熱い心意気」みたいなものが、中山晋平や、堀江中佐や、山口に至るまで、いろんな人から伝わってくる、本当にいいお話だと思います。ただ、それを演出できる力量は、大学生などには無理な話だったのかもしれない、と思います。盆踊りから戦争へ至るまでを、もっといろいろやりたかったなあ。
おっと、演出の反省になってしまっている。
本自体は、本当にいいお話だと思います。八十入門の書としては最適かもしれません。ただ、お話用に若干アレンジされていますので、同じ筆者の作品で「ジャズで踊ってリキュルで更けて‐西條八十不良伝‐」という、論文?があります。そちらをどうぞ。芝居終わった後に古本屋で見かけて、くやしかったので読んでないけど。あとからこんな本出してしまっているくらい、斎藤憐さんも八十が好きになったのかもしれん、と思う。

2.大江戸ロケット/中島かずき

「江戸時代。月から落ちてきた女の子を月へと返すために、江戸の職人が力を合わせてロケット作ったけれど、結局月まで届きませんでした。でもロケット打ち上げが合図になって、月からお迎えが来てくれたので、めでたしめでたし。」

これほどまでにご都合主義なラストが今までかつてあっただろうか……。いや、わからなくはないよ。っていうか、「月に最初に降り立ったのは江戸っ子」というオチのためだけに、このラストを作ったという見解はいかがなものだろう。
大気圏で花火が上がるか? 消えるわ!!(理科の実験)
しかし、こういう勢いだけの芝居は好きです。なんか、いかにも「学生演劇!」という荒っぽさが出せるのは、松尾スズキだとか、野田秀樹という、でっかい系芝居を作る人の台本ですね。そしてそっちのほうが学生演劇的には面白い。細かい芝居を要求される台本とは、若くない。中でも、成井豊と中島かずきは、エンタメ芝居一直線だからな。解釈云々言うほうが間違ってる。
しかしこの芝居を実際演じて思ったのは、「私らは楽しいけども、お客さんはついてこれているのだろうか」ってことです。歌あり、ダンスあり、のミュージカル仕立ては、学生演劇クオリティーでは難しいのだ。エンタメは感動よりも技巧が求められます。

1.マイアミにかかる月/松尾スズキ

「親切とは何か」を問う。親切は人のため、いいや自分のため、そういう簡単な話じゃない。
姉妹の母・トクコは未だジャングルから帰らぬ日本兵の夫と結婚し、彼を待ち続けるために空爆されるホテルに残った。
長女カツエは愚かな大統領の愚策に振り回される農民達を哀れに思い、彼らを煽り武器を手に取り、解放運動の末逮捕され死刑宣告をうける。
そして二女カスミ、予言に基づき株を買い、それで得た莫大なお金で飢えや病気で苦しむ世界中の人々に寄付活動を始める。
彼女らは何をしようとしたのか。それははたして自分のためか? 主役女性のうち二人は、「親切」の末に死んでしまいます。カスミは本当に助けたかった二人の命を救えない。生まれつきの味覚障害であり、生きることにリアリティを見いだせない死にたがりのカスミ。カスミとカツエは異父兄弟。母は六回も結婚を繰り返し、最後の父親もついに姿を現さない。男は今なおジャングルで迷い続けている。