『食べっ子どうぶつ』がとまらない。素朴な味わいがたまらない。 ごまめです。 紅茶があればさらに美味。 ポットがあればさらにお手軽。 たぎる情熱。ほとばしる物欲。 ごまめでした。 ってか、「ごまめ」ってこれ、方言だったのですね。 あ、あとたまには写真でも入れてカラフルにキメてみました。 どうでしょう。キマってますか。 ご、ごまめでした。 2010.09.28(tue)20:52 なんだ、このけだるさは。 固まりかけたセメントの中を歩いている気分。 前をみるのもしんどいし、首をふるのもしんどいし、声を出すのもおっくうだ。 けだるさの原因は太宰治の読みすぎではありません。 そうそれはきっとセデス。 ごまめです。 っていうか太宰治まともに読んだことないです。 頭が痛かったのです。世間一般の頭痛薬は優しさ半分のバファリンですが私はセデス派です。ところで、いつのころからか「バファリンの半分は優しさでできています」のフレーズ、全然聞かなくなったのですが、あれですか、製薬会社的に何かよろしくないことがあったのでしょうか。「優しさ? 嘘つくな!」みたいなクレームがあったのでしょうか。 悩ましいですね。 それはそうと、某つぶやきコミュニティで、こんなふうな(意訳あり)コメントを発見しました。 「関係悪化を厭うのはわかるけれど、だからって領土を減らしていいもんなの?それは未来の世代に申し訳ない」 なんだそりゃ。 そんな嘘をついちゃいけないぜ。腹割って本当のことを言おうぜ。「俺のモン取るなよ!」これでいい。他人に自分のモノを取られたり、勝手に使われたりするのは腹が立つ。それはほんとうのこと。腹が立たないって言う人もいるかもしれないけど、私は腹が立つ、腹を立たせてしまう、ちまちました性格なのです。でも、それならそれで「なんで俺のものか」の根拠を立てなくちゃいけない。 私はその根拠をよく知らない。 「お金を出して買ったから、これ、私の消しゴム」 「十年ずっと愛用してる、これ、私のお茶碗」 「手作りの、これ、私の給食袋」 なるほど。対価を出して手に入れたか、時間の長さか、自分が『オリジナル』なのか。「ものをもつ」ということはこのうちのどれかなのかしら。というか、思いつかなかったのでとりあえず三つにしておきます(残念!)自分とどれだけ深く関係しているか。手作りの給食袋なんかだと、愛着がわく。とても。同時に誰かにあげたくなる。自分が作ったものを見てほしいし、なんか、伝わりそうじゃないですか。そんな気が、するではありませんか。 愛用のお茶碗は私だけのもの。他人が使うと気持ちが悪い。お箸とか、靴とか、身体になじんだものは自分のものだ。(だれかの洋服を着たとき感じる違和感、ああこれは自分の服じゃないなあ、と思うのです。でも、着ているとだんだんそれに慣れていくものです。それをどう思ったとしても。)文化とか、歴史とか、「脈々とずっと続いてきた」と思いたいものを奪われたときに激しい怒りが沸き起こる、そんな理由もわかる気がする。力強く宣言できるのも、「ずっと一緒だったから」――それだけで正当な理由になりそうじゃありませんか。 では最後、「お金を出して買った」、これはどうだろう。お金はそもそも誰のもの? お母さんからもらったお小遣い、だったらそれ、お母さんのお金だから、お母さんの消しゴムじゃないの? いやいや、お金は私がもらったのです。でも、お母さんに「貸して」って言われたら、断る理由もないような気がする。これは「私の消しゴム」なのに。そのはずなのに。お金で買ったものは私のもの。それはそういうふうに法律で決まっています。でもそれは「法律で決まっているから、人を殺しちゃいけません」と言うのと一緒じゃないのだろうか。『法律』という神さまに、審判をゆだねてしまっており、自分の力で「これは、誰が何を言おうと、私のものだ!」と宣言する意思を失っているのではないだろうか。だからたとえば「なんで人を殺しちゃいけないの?」というすごくもっともな(思いつかなかったのが不思議なくらいもっともな)質問にも「法律で決まっているから」としか答えられなくなっちゃうのではないだろうか。 問題は「これは誰のものか」でなくて、「どっちが口達者か」にかかってる。 ここを「国」とよび、「日本」という名前をつけて「日本語」を使って、「日本人」を名乗ってる。でも「日本人」の私は「日本」の範囲がどこからどこまでなのか知らない。「日本語」がなんなのかも知らない。だって、知らなくたって、「日本」で「日本人」として、なんとなく生きていけるんだから。未来の世代なんか気にしない。「日本人」なんて、とっくの昔に絶滅しちゃっているかもしれないじゃないか。 2010.09.27(mon)20:52 「明日はコスモスを見にいきます」 ははからのメールにびっくりしてしまった私はやっぱりディシディアのやりすぎです。 ごまめです。 でも実はそんなにやりこんでも入れ込んでもない。ただしデュオシムは愉しみ。ジタンがクジャの戦闘をアシスト、って何その心躍るシステム。新キャラも登場するらしいです。FF9からは、誰か登場するのでしょうか。出るならビビかな。ビビならいいなあ。 でも正直言うと、FF9にはリメイクはあっても、スピンオフやら追加イベントやらは、もはや蛇足である気がしてなりません。声がついたのは大変うれしかったけれど。たとえ某ニーサンだとしてもうれしかったけれど。 ディシディアのイベントを見ていても、FF9関連のものは、他のキャラに比べて、ああこれスタッフの人もやりづらかったんかもなあ、とか思います。プレステ組ならば、一番やりづらかっただろう。少なくともクラウド辺りに比べてはやりづらかったはずだ。あとスコールとかもやりやすそうだな。というか、彼は本編にくらべて男前度がアップしすぎていて、たまげましたが。 のんびりまったりFF9を進めていて思うのは、ジタンの男前っぷリは、クラウドやスコールの男前とは全く別次元にあるということ。ジタンは「これから自分はどうなるのか?」について悩んでない。不安はあっても悩まない。たとえ悩んでいてもプレイヤーの目に見えない。正直しばしば「かっこよくない。」でもそれがジタンの男前っぷりではないでしょうか。加えてそういう「男前」だから、『内面』をよそで作るってのができなかったのではないかしらん。 2010.09.25(sat)23:56 ほんとうにつくづく思うことは、世の中には「かっこいい文章」が存在するということである。 山田詠美の小説なんか、めちゃめちゃかっこいい。なにがって言われると、言葉につまってしまうのだけど。たとえばいま、手元十センチ圏内にあるエイミーさんの本(『蝶々の纏足』新潮文庫版)を例にしてみる。 ちょうちょう の てんそく。 題名だけで、かっこいい。 書きだし一ページ半がさらにかっこいい。 「十六にして、私、人生を知りつくした。そんな筈、ないけど、とにかくそう思い込んだ。」 間の取り方が絶妙なんです。なんでこんなに句読点が多いのか。そしてなんでこんな、この不格好な文章に、惹かれてしまうのか。なんだろうなあ。ああ、そう思ったんだなあ、ということが、リアルに、と言ったら違うものになってしまうけれど。なにか、この人はきっとこんな風に、とぎれとぎれでしか考えられなくなるような、すごい体験をしたってことが伝わってくるんじゃないか。うん、きっとそうだ。さあみんなで声に出して読んでみよう! ここで引き込まれたら、もう止まらない。 「その日、私は西日というものを初めて味わった。」 キスのことである。初めてのキスは西日の味。なんてこった。彼氏の名前は「麦生」である。なんかもう、読んでるこっちも香ばしくなってきそうなのである。初めてウィスキーを飲んで、初めて彼氏とベッドインして、とろとろにとろけた躯と心、はちみつ色のそれらが見えてきそうなのである。 さらにかっこいいのは、この主人公が、冷静に、そういう出来事を見つめているっていうことだ。初めて男の子の部屋に行くときも、おちつきはらっている(「だから、その時も、体を熱くするようなことはあっても、恐怖に震えたり、泣き叫んだりする不様なことは避けることができた。」)そしてその冷静さで、男の子をせかし、快感をあじわい、その頭の片隅で、幼馴染への勝利を味わっている。 なんてかっこいいんでしょう。 あなた信じられますか。この「私」は高校生なんですよ。 (追記 2010/09/25) 取り消し線と斜体を間違えてました。なんてこった。 2010.09.24(fri)21 『ブレイク寸前のロック歌手バンド!』 ↑ヤフーがニュースにするほど売れてないのか? そう思ったわたしはディシディアのやりすぎですか。ごまめです。野田秀樹の『走れメルス』を読んだ後、太宰治の代表作がルなのかロなのか分からなくなった時の感覚と言えばわかってもらえますね(よけい混乱を与える説明) 過去の汚物をぱらぱら見ていて鳥肌たちました。しかし「あのころ私はアホやった」と言えるほど現状肯定もできない今日この頃です。しかしこれが一年前の代物([NOSTALGIA])なのか。懐かしいような気もするし思い出したくもない気もするぜ……。 それにしても、他のサイトをまわってみて思ったのですが、こういう「読み物」は、どうしても似たり寄ったりな感じになってしまうのですね。いや、あたりまえか。どれもこれも物語だし。FF9で物語は既に語りつくされているのではないか。と思います。だいたい、すでにFF9の作品世界が語られてしまっているというのに、なお隙間を縫って「まだいける!」とばかりにポソポソと何かを発言してしまうなんて。なんとまあ。かくいうわたしもそんな一人に違いない。自分はそういう言葉しか語れなくなったのかもしれない。 ネット世界が人々にもたらしたものは、情報量、とか、グローバル化、とか、ではなくて、「書くこと」だと、小説家の高橋源一郎氏が言っていました。タカハシさん曰く。「歴史的に見ても、これだけ多くの人が『自由にものを書く』時代や世界というのはかつてない」(←あいまい。意訳あり。) ……たしかに。考えられなかったでしょうね。自分の「作品」を読むのは、同人誌とか文芸誌に、死に物狂いで書いたものを乗せてもらって、それでようやく日の目を浴びる類のものだった人々からしてみれば。 では、「書くこと」の民主化は、何を意味しているのか? 書くこと、つまり、誰かに向かって何かを表現すること。何か伝えたい言葉があったから書いたはずです。そうでなければ、ネットと言う場所に、言葉を公開する理由がありません。自分の書きたいように書く、それはつまり「そこで語られるべきことはあなにもない」ってことではないか。何でもいいのです。とにかく語ってさえいられれば。過剰な言葉で装飾したできごとや自分を、同じようにふるまっている他人と共有する。しゃべることがありすぎて『失語症』になっちゃうのです。ほんとうにしゃべりたいことはしゃべれなくなっちゃったのです。 でもいつの間にか、ほんとうに「しゃべりたいこと」はブログの中にしかなくなっちゃったのです。 本当に言いたいこと、は、誰にも言えないのだと、誰かが言っていました。言葉にした瞬間、それは全く異質なものに、「言葉」の意味するものになってしまう。ポルノグラフィティ風に言うなら、「知っている言葉はほんのちょっとで 感じれることはそれよりも多くて まるで窮屈な服着せてるみたい(『パレット』)」となるわけですか。そういえばFF9でもそういう名シーンがありました。もっとも、私たちは「言葉」の意味する範囲で、ものを考えることしかやってこれなかった。やってこなかったのだ。 ちょっとでも脱出しようとおもうから、誰かの書いたものを読んでいるのだろうか。 そうだったらいいな。ただがむしゃらに、本の量に対して余りに少ない余生にせきたてられてではなく、電車の中での暇つぶしのためではなく、誰かの言葉が聞きたいから、そんな理由で本を読めていたのならいいな。 2010.09.22(wed)21:55 なんか調子に乗って三本立ての日記を書いていますね。酔ってました。 なんてこったい、ごまめです。ひゃお! この三連休は自堕落全開で(いつもより数倍自堕落です)過ごしていました。 独り暮らしで体調を崩すひとが続出する理由が、分かった気がします。にんげん、「ごはん食べなさい!」って言われないと、いつまでも自堕落作業にいそしんじゃいます。わたしは今日は午前中の後半に起きて、本を読んで、気付いたら昼で、特に気にせず続けてディシディアやってたら夕方で、ネット始めたら夜でした。 前言撤回。全国で独り暮らしをやってる方に謝らなくちゃいけない自堕落っぷり。 なんてこったい。 その間にきんぴらごぼう煮たりしたはずですが、食べるの忘れてました。 なんてこったーい。なんてことない。明日のお弁当になります。 食べるために生きる。あるいは生きるために食べる。「ために」だなんて、なんとつまらない言葉。作家のいしいしんじ氏は「いきる」と「たべる」が同等のものと感じられる食生活を、送ったことがあるそうです。うらやましいなあ。(でも気づけばそれってクイナになりますかね) 2010.09.20(mon)21:11 束の間だけでいいの 王女ではなく本当のわたしになりたいの 愛し合う二人… だが 結ばれることは 許されぬ運命―― by『拒まれたプリンセス』岡田純子 デジャヴ! デジャヴュ!! (ところでこれどうやって発音するんですか) 2010.09.18(sat)23:39 高校生にもどりたい。 いやあるいはタイムスリップでもいい。 そして「いますぐに高橋源一郎と村上春樹を筆頭に、かれらにいたるまでの近代文学の祖を読み倒せ!」と張り倒してやりたい。 そしたらば、もう少しマトモな感受性と思考回路が備わっていたのかも。 と、梅酒でふやけた頭で思ったのです。 いま高校生のみなさん、本をたくさん読みましょう。そしてかつて高校生だったかたも。永遠に高校生の、そこのあなたも。 2010.09.18(sat)23:39 ケータイを変えました。 ネットワーク暗証番号をロックされました。 ごまめです。 もちろん、いま話題のiPhoneなどではございません。バカボンのパパが持ってるケータイです。安かったのに新機種らしいです。よく知りません。Docomoショップのお姉さんに「機種とかどうでもいいのでとにかく安いやつがいいです」といったら勧めてくれました。 以前のものと使い勝手が似ているので、まぁすぐになれることができそうです。 それにしても、いい天気でした。 鼻唄うたいながら歩いてました。 とっても気持ちがいいもんです。 そういえば何故か唐突に「NOSTALGIA」も改装です。 えらくシンプル構造ですが改装中とかそういうわけではありません。これが標準です。 それにしても梅酒が今ごろ効いてきたのれす。 2010.09.18(sat)20:10 ほんとうは今、「とんでもない」ことが起こっているんです。 たぶん。 けれど私にはどうしても、「たいしたことない」としか感じられないのです。 円高も代表選も民主主義も押尾も、いろんなことがとんでもないことになっている……はずなのです。なのになぜでしょう。「とんでもないことなどない」なんて、眼鏡を外した目でテレビを見ているわけです。 私は「考える」ってこと、ただしくしてるのでしょうか。してないですね。ただなんとなくテレビがそう教えてくれるから、ああそうなんだなあと、納得して、それでおしまい。 熱狂的ななにかにとらわれて、考えたフリをしていられる世の中だったら、もっとラクだったのでしょう。けどそれでもやっぱり「考える」はできてない。 考えろ。考えろ。自分の頭で考えろ。自分の頭が無くならないうちに。 そのためにも、もっとずっと本を読もう。今の私にできるのは多分それくらいなのです。 2010.09.15(wed)22:07 「駅構内の点字ブロックの隙間の醤油」について書いた翌日、つまり昨日は、「空き家の塀の上のどら焼き」でした。おまえはなぜその場所にあるのだ? いいや、そこに「どら焼き」があることよりも、そこにいてもなお「どら焼き」であり続けることのほうが難しいのではないか? きっと「どら焼き」はそうしてそこにあることで、何か主張したいことがあったのです。きっと、世界と人間のかかわりに迫るような、問題が。 しかしこれって、「どら焼き」以外のすべての人には極めて果てしなくどうでもいい問題です。 いわゆる「無」です。 ごまめです。 そういえば、いま、わたしはディシディア(ユニバーサルチューニングでないもの)をやっているわけです。カオス陣営の方々は「無」が好きですね。でも「無」ってなんでしょう? ジョヴァーナ氏の好きな「無駄ァ!」とはちがいます。「無駄」には「駄」がつきますが「無」にはつきませんからね。 ようやくジタンのレベルが50の大台に乗ったところなわけですが、つい先日「ディシディア続編」がでることを知って愕然としました。なんちゅうタイミング。いやいいよ? ディシディア。やりたかったしね? 「続編」も多分買うよ?(ただし中古。) それはそうと、妹の彼氏に貸したまんまのFF9はいつになったら戻ってくるんでしょう。このままだったら私、こっちも中古で買わなくちゃいけないかもしれませんよほんと。 そんなわけで、起きたのが正午、気がつけば九時な一日でした。三時間本読んで、三時間ディシディアしてました。 ちょうたのしい。 「時間が無い」っていうふうな言い方は好きではないのでしてこなかったつもりですが、最近は「時間が足りない」と言いたいです。 2010.09.11(sat)21:49 職場の先輩とその奥さんのところに、今日子どもがやってきたようです。 いや、めでたいね。 ごっまめです。 街並みをあるいておりますと、まあそれはそれはたくさんの、「日記のネタ」が転がっているわけです。(大抵忘れて、たまたまチャンネルが合っていたテレビのBGMなどを聞いて「今のやつ知ってる!」みたいなことを書くことになるわけですが。)(つまにこれは日記などでは断じてないということですね。)たとえば今日などは、「点字ブロックの隙間に落ちた、パックの寿司に付属の醤油」でした。なぜそこに醤油が必要だったのか。いかにして醤油はそこにありつづけたのか。それは誰にもわかりません。ときどきこういう不可解な出来事に出くわすので電車は面白いです。 寝坊して飛び乗った山手線の前方で、走行中にドアが開いたとかで足止めくらい、乗り換えた先の次の路線はパンタグラフの故障で止まってました。 何たる奇跡。 よく見れば電車の中こそ、その土地由来の変人奇人が集っているのです。 なかでも忘れることができないのが、「次に止まる駅名を教えたところ握手をもとめてきた妙齢の婦人」です。オーサカの私鉄での出来事でした。 「次に止まるのってどこですのん?」 「鶴橋ですよ」 「いやー、ほんまにー!」 「?!」 「親切にありがとうねー! いまでもこんな親切にしてくれるひとがいはるんやねー! ちょっと握手して!」 「はあ」 「握手までしてくれてありがとうねー!」 と、ご婦人は電車を降りて行かれたのでした。 それにしても、なぜ、握手。 トーキョーの電車は読書家の方々が多いです。オーサカよりも読書家が多いです。出版不況がウソのようです。あとオシャレなブックカバーを付けている人も多い。OLさんだけにとどまらず、サラリーマンのおじさまたちも、革製のカバーでくるまれた文庫本をすっとカバンから取り出します。このへん、オーサカのサラリーマンはカバーをひっくり返しただけだったりするのでなっちゃいません。電車内読書にはブックカバーが必須です。それがあるだけで、知的でオシャレに見えちゃうものです。 におわないオヤジ。 イェー。 負けじとこちらも花柄の紙製ブックカバーと和紙の栞で『インザミソスープ』(村上龍の小説。外国人が東京都心部でオヤジからムスメまで幅広く惨殺しまくるぜ)を読んだりしています。 電車内読書の内容はミステリだったり歴史小説だったりが多いです。でも先日、背表紙を高く掲げて「嫌いな韓国人」(の、ようなドギツイタイトルでした。かなり古い装丁でおそらく古本。PHPから出版されてましたがAmazonではみつかりませんでした)みたいなタイトルの本を読んでる方がいたのには驚きました。私だったら申し訳なくて隠しながら読んじゃいます。どんなものでも、何か協力な主張を掲げている本を読むのは恥ずかしいです。こんな私がこんな主張をしちゃってゴメンナサイな気分になります。主張ができる人って、なんなんだろうかしらね。それらの言葉は、なにか遠くからの言葉のように聞こえるんです。 だからでしょうかね。口癖が「〜かもしれない」になっちゃうのですよ。 2010.09.09(thu)22:49 先日あげた「HOME」のno.4ですが、あげた後で、「『だいすき』は挨拶ではないんとちがうか」と気がつきました。なんてこったい。 なので再び自分語りしてみます。 じゃあなぜこの言葉を選んだのかというと、挨拶の言葉には意味が無くて、それはだれかとだれかによって行われることに意味があるからです。「おはよう」も「こんばんは」も、言葉それ自体ではなんだいそりゃ、です。当たり前のことですが。だから「だいすき」も、そういう挨拶のひとつに数えてしまおうという、そんな感じをアレしたわけです。 どれだ。 最近はついついテレビばっかり観てしまいます。なにかしら音源がほしくなるせいです。ごまめです。「NHKスペシャル」の『消えた高齢者 無縁社会の闇』を見ていたのですが、消えた高齢者数が圧倒的に近畿圏内に集中しているので吹き出しました。最初の「消えた高齢者」が発覚した初期のころ、わが地元がひんぱんにニュースに登場していたことを思い出しました。まあそれはいいです。多かれ少なかれ、そういうことはあるだろうということは誰しも予測できることだったはずですから。 テレビばっかりもアレなので、オーディオでも買おうかしらんと考え中です。どうせだったら気軽に(PCで音楽は聞けますが面倒だし)音を鳴らしていたいので。でもこの音を鳴らしていたいっていうのも不思議なもんです。たいがい騒がしい都市部に住んでいながら、なおも『音』を求めているとは。 朝の満員電車に乗っているときなんか、本か愛機(SONYウォークマン)が必須です。 あの静けさは何なんだろう。終電間近では、それなりに知人と話す人も多く、静かではありませんでしたが、それなりに人が詰まってくると、やっぱり静かになります。これだけ人がいるのに静か、っていうのが違和感なのかもしれません。同じ方向に似たような服装の人が流れていく光景、私はそのなかの一人ですので上から見たことはないですが、それって壮観だろうなあと思います。 ところで今日「鉄腕DASH」観ていて気がついたのですが、都会暮らしの現代人はにんげん以外の生き物を見る機会が少ないんだなあということです。せいぜい野良猫。もっとも、これは地元の山のふもとにいるときだって、大差はなかったのですが。ただ最近は自生している植物すら見ないので、余計にそう感じたのかもしれません。少なくとも、地元には山と木がありました。山はあるだけで落ち着きます。驚くほどに。 まあ、こんな風なことを考えるのも、『蟲師』立ち読みしたせいでしょう。『蟲師』に描かれる山が好きです。海はべたべたして苦手なのでどちらかといえば好き嫌いで言うなら山が好きです。どうでもいいですが最近評価基準が「好きか嫌いか」なので、それってどうなん、って思います。 田舎は静かです。でもようよう考えてみると、静けさには二種類ある。いまいるところも静かなところです。基本的に昼も静かだし、子どもも多いし(子どもが多い=若い人が住みやすい街ってことですね)ここはいいところです。でもこの静けさと、山の静けさは本質的に異なるんだろうなあ。前に大学で観た、NHKのドキュメンタリーで、山で暮らす老夫婦の話を思い出します。ああいう生活を無意識でできる、っていうことに涙がでます。 2010.09.05(fri)22:17 ああもうあかんてー。 ほんまにあかんてー。 昨日届いてしまったのです。FF9十周年記念アンソロジー。 読んでみて、一息ついて、また開いて、寝て、起きて、読んで、会社行って、晩御飯食べながら読んでました。いわゆる同人誌を買うのなんて、何年振りだ。FF9発売二年目の夏の大阪コミケに行ったきりだから、八年ぶり? うひゃあ八年とか。八年前に初めて買った同人誌もFF9でした。 なんだろねーこれは。 なんかねー、ホームベースやね。 凄い確率で戻ってきています。数ヶ月前までモンハンターンだったのですが、ここしばらくはFF9のターンが継続しているようです。結局それだけ、変わり映えのない思考回路ということですかね。よい本をたくさん読んで、よい目を作っていきたいものです。とまあこれは、宮澤章夫の言葉ですが。 それにしてもこれはいいアンソロです。 楽しんで書いてらっしゃる感が全開で伝わってきます。 そういうのを見るのはしあわせですね。 そういえば今日、客先にユニット長(と書いたら間抜けな感じの字面ですが、実は部長の次くらいに偉い人だったはずです)から私宛に電話がありました。こんなド新人に一体何の用事ですかとびっくらたまげておっかなびっくり電話を受け取りました。びっくりが2回も出てくる大変なびっくりっぷリです。 そしたら、 「明日、ロボコンだよね(←NHKで放送するほうじゃなくてもっと地味なやつ)」 「は、はい」 「がんばってね」 「は、はい」 「じゃあね」 って、そんだけ?! 私のおっかなびっくらを返して!! 先輩曰く、「これない理由はパチンコ」だそうです。 なんだいそりゃ。 2010.09.03(fri)22:17 「両毛ってこれ、どこの毛やねん」 地名でした。 ごまめでした。 2010.09.02(thu)23:23 「やっぱり、NHKっておもしろい!」 みたいな宣伝文を見かけました。「anan」の吊広告でした。 なにが「やっぱり」なんでしょう。あれですか、以前研修会場で見た、男子の必須装備のことですか。女子にも「やっぱり」が必要なのですね。 「やっぱりそう、NHKって面白いのよね。私って、以前からNHK好きで、よく見ていたほうの人なんだけど、だれもそういうこと言わないもんだから、おおっぴらに言えなかったのよね」 ってかんじですか。その「やっぱり」は。 NHK。 うちのテレビは電源いれれば基本的にNHKが映り、チャンネルまわせばいつの間にかNHKに落ち着いています。たしかに最近は、以前にくらべれば視聴者ウケをねらった番組が増え、それでいてお金がかかっているものだから、良質な作品はそれなりに増えてきた。『サラリーマンNEO』みたいな自己パロディにも、『いきもの地球紀行』のようなドキュメンタリー系もどちらにも言えることです。アニメも人形劇も、地味に良作があったりする。よくいえば「お客様目線」ってやつですか。わるくいえば「媚びてる」となるのでしょうかね。でもいまはそんなことどうでもいいです。だいたい、メディアというのは、基本的に、われわれが観たいものを見せてくれるもののはずです。「視聴者に媚びてる」とは誉め言葉でもいいくらいです。 ジャーナリズム的な話を細かくしたいわけではありません。 ポイントは、それらの評価はただ単に、民放が自殺しているとしか思えないくらいくだらないせいで、かしましい笑い声が響かないNHKを見るともなしに見ているだけだということです。ことさらNHKが面白いわけじゃない。たとえば『中学生日記』『明日をつかめ』『青春リアル』系の若者向け番組なんかは背中が痒くて見てられない。討論番組やるなら、切々と物わかりのいい人たちが話をしている『日本の、これから』よりも、個人的には言いたい放題好き勝手言ってる『そこまで言って委員会』が好き。好き嫌いで言うなら好き。『THE世界遺産』や『世界の車窓から』なんかがやってるときは、そっちを見にいくこともある。 切実に面白さを求めてまい進していて、いまも多分突っ走り続けている民放とは対照的に、あんまり変わり映えしないことにちょっとだけ手を加えて「新しさ」を保ってきた番組を馬鹿正直に放送してきたNHKを、はたして面白いと呼んでいいものか。それらを面白いと感じるようになったのは受けて側であって、実はなんにも変ってなかったのかもしれません。 2010.09.01(wed)23:23 2010年 1月 2月 3月 4月 5月 6-7月 8月 9月 |