免許証は、入っていなかった。かわりに、色あせたセーラームーンがポーズを決めて仁王立ちして「おしおきよ!」とか言ってそうなトレカ(注・トレーディングカード)があった。そこにいるのが当たり前のような顔しているセーラームーンをしばし見つめて、それからこれはどういうことか気がついた。
「もしかして、だまされたの? 僕らって」
シンゴが呟いた。僕とショータは、シンゴの頭をぽかりと殴ってやった。世の中には、分かってても知ってても、喋っちゃいけないときってもんがあるんだ。
僕らはなにもしゃべらないで、黙って体育座りしていた。だって、そうするしかないだろう。これでやっと、先生の年がわかるとおもったのに、ふたを開ければセーラームーンのトレカだったんだ。悔しいし、なによりむなしい。これじゃあまるで、バカみたいだ。いやいや、バカそのものだ。それに、よおく考えてみれば免許証をあんなに簡単に貸してくれるなんて、最初からおかしかったんだ。
ショータはカードケースを開いたり閉じたりしていたけれど、そんなことで免許証が現れるワケもない。
どうやら、先生の目が光ったのは気のせいじゃあなかったみたいだった。僕はため息を一つ、特大級のヤツを吐き出すと、
「ショータ。どうするんだよ、これ。返しに行くのか?」
ショータは竜巻が起きそうなくらいの勢いで、首を振った。僕だっていやだ。怒られるのは目に見えて判っている。
「こんなもん、先生だっていらねえよ」
ショータは、ぽいとトレカを投げ捨てた。セーラームーンは一瞬だけ空を飛んで、すぐにぼとりと地面に転げた。僕はぼんやりとそれを眺めて、シンゴが慌てて拾いにいった。偽者だろうとなんだろうと、借り物なんだから返さなくてはいけないんだよとシンゴが言った。シンゴの言うことは正しい。かぎりなく正しい。僕だって、それはわかってるんだけど……。
僕たちは、職員室へ向かわねばならない憂うつに、一斉にため息をついた。ショータはその場にひっくり返って空を見上げていた。作戦が失敗した事がよほどショックだったのだろう。ショータの情熱は、ナミナミナラヌものだったから。シンゴは免許証入れに着いた泥を払っていた。僕は、そんな二人を眺めながらぼーっとしていた。
最初に気がついたのは、シンゴだった。
「あれ?」
なんだろう、とシンゴはカードケースをごそごそいじくった。ショータと僕がシンゴを見ると、シンゴは僕らを交互に見つめて、カードケースを差し出した。なにやら、折りたたまれたものが入っている。
写真だった。先生に似ている若い女の人と、男の人の写真。それから、その女の人と男の人のあいだに、家族連れの写真。さっきの女の人と男の人、それから、大きな赤いリボンをつけている、『月に代わってお仕置きよ!』を崩したようなポーズで、にっこり笑顔の女の子。こっちの女の子も、先生そっくりだ。
「だれ、これ」
「先生かな」
「先生にしちゃあ、若すぎるだろ」
「ずっと前の写真とか」
「先生って子供いたっけ。ていうか、結婚してたっけ」
「聞いたことねえ……なっ!」
突然、ショータが立ち上がった。続いてシンゴも立ち上がった。何事だろうと振り返って、僕はおもわず後ずさりした。
タナカ先生が、セーラームーンのトレカよろしく、仁王立ちしていた。顔が真っ青で、真っ白だった。ああいうのを、顔面ソウハクって言うんだと、後でシンゴに教えてもらった。そんな顔した先生は、見たことなかった。僕は、どれだけ怒られるんだろうと縮み上がった。
「あなたたち、あの、さっき渡したカードケースなんだけど……」
「あっ!はい!ここです!返します!」
普段から、授業態度も休み時間の態度もあまりヨロシクないショータは、僕の手の中からカードケースと写真をひったくると、先生の手の中に押し付けるようにして返した。
先生の表情が、一気に安心したようだった。セーラームーンがそんなに好きだったのかな。
「先生、スミマセン」
「ごめんなさい」
僕とシンゴが、すぐに謝った。先生は何にも言わないで、カードケースの中身をチェックした。
「あの、先生。僕たち、セーラームーンのトレカと、そっちの写真しか見てません」
と、ショータ。
「免許書とか、全然見てません」
と、僕。
「先生の年とかも、全然知りません」
ばっかやろう! と、僕とショータは同時にシンゴの頭をどついた。計画をばらしてどうするんだ。シンゴは、頭はいいんだけど、いつもどこかヌケている。マ行の一部が欠けているんだ。
先生は、僕たちのことは怒らなかった。呆れられたのかなと思ったけれど、違うみたいだった。
ため息は、安心したときにもつくらしい。先生のため息は、それみたいだった。
「あの、先生。僕たち、そのう……」
なんとかして謝ろうと、ショータが口を開いた。じっと写真を見つめていた先生は、顔を上げた。キラリと目が光った。それはなんだか、涙のようにみえたりしたけれど、これは気のせいだ。絶対そうだ。そうに違いない。だって、そうだろ? なんで先生が泣くんだよ。うれし泣き? セーラームーンのトレカが戻ってきて? そんなことで? 泣きたいのは、僕たちのほうだよ。
自分の顔があつくなっていくのがわかった。だけど、どうしょうもない。ショータとシンゴもおんなじみたいで、ショータなんて、顔で肌色をしているところなんて残っていなかった。女の人の前で涙を見せるのは、相手がたとえ先生でも、恥ずかしい。男として恥ずかしい。ショータもシンゴももちろんぼくも、うつむいていた。
「ちょっとちょっと、何みんな泣いてるのよ」
先生が言った。泣いてなんかないのに。三人同時にむっと顔を上げた僕らを見て、先生はちょっと笑った。
「大丈夫よ、怒らないから」
あれ?
僕は、ヘンな感じがした。違和感っていうやつだ。先生の笑顔は、いつもはもっと……なんていったらいいのかな、子供っぽいっていうのもおかしいし、とにかく、もっと僕らに近いところにあるんだ。
だけど今はなんだか、ヘンに遠いところにあるみたいだった。僕たちは顔を見合わせた。
「先生、キミ達に渡す『免許証』を間違えちゃって。はい、ホントはこっち」
と、先生に差し出された。これを渡すために、追っかけてきたんだろうか。何てやさしい先生なんだ! とか思いながら三人そろって覗き込んでみると、そこには、名前のところに筆ペンで、『四年一組 タナカ先生 心はいつもオトメ☆』とでっかく書いてあって、となりになぜかピカチュウのシールがはってあって、てっぺんには『うんてんめんきょしょー』と書いてあった。
「……なんですかこれ」
「運転免許証四年一組特別ヴァージョンよ」
ようするに、本物は見せてくれないらしい。
「先生、いつもこんなもの持ち歩いてんの?」
ショータが、腹のそこから呆れた声を出した。
「まさか。作ったの」
そういえば、鞄の裏でごそごそやってたような気がする。
「私を出し抜こうなんてねえ、キミ達にはあと五十年はやいのよ」
無邪気っぽく、先生はにっこりした。先生、いつでも遊び心たっぷりなんだ。遊ぶことに命を賭けてるショータと勝負しても、もしかしたら先生が勝つかも知れない。子どもみたいな先生だ。
だけど、いくら子どもみたいな先生でも、もうオトナなんだ。だけど、僕たちはしょせん小学四年生なのだ。まだ子どもに過ぎないのだ。そう、今はまだ。五十年も経てば、僕らはオトナどころか、オジサンも通り越してオジイサンになっている。そんなくらい年をとれば、オトナの不思議も少しはわかるんだろうか。だけど、そんなに年をとったあとじゃあ遅いんだ。だって僕らは、今知りたいんだから。
このままでは引き下がれないらしいショータは、ぐぎぎと唇をかんだ後、ふと思いついたらしく、
「じゃあ先生、あの写真はなんなんですか?」
笑っていた先生は、ぷっつりと笑いを止めた。そして、
「先生のね、宝物よ」
「タカラモノ? 写真が?」
僕たちは首をかしげた。写真だったら、アルバムに腐るくらいはってある。写真なんか恥ずかしいからいらないっていってるのに、母さんとか父さんが取りたがるんだ。なんでだろ。見る事も、あんまりないのに。持ち歩くなんて、最上級にハズカシイ。
だけど先生は、照れもしなかった。でも、にこりともしないで、かわりに少し悲しげな顔をして、
「十年前、交通事故でね。……死んじゃったんだ。だんなも、娘も」
いきなりのシリアスな話に、僕らは顔を見合わせた。そんな話、聞いたことがなかった。いつも明るくて、おもしろくて、サザエさんみたいな先生が、こんな形の顔のパーツを持っていたなんて、意外でしかたなかった。先生にだって悲しい事やつらい事はあってあたりまえなのに、僕たちはそんなことはありえないって思っていたんだ。
先生は、話し続ける。僕は、先生の目じりのしわが深いことに気がついた。先生って、若そうに見えてたけれど、ホントはそんなに若くないのかもしれない。
「この写真をとった頃が一番幸せだった。いつまでもそれが続くって思ったわ。そんなわけないのにね。まるで――まるで、子どもみたいだった」
風が吹いた。がさがさ、と木の葉が揺れた。ひやりとする風だ。もうすぐ夜が来る。気がつかない間に、ずいぶん時間が経ったらしい。みんな、今は喋っちゃいけないときのような気がして、じっと黙っていた。すると先生は、何の前触れもなく、にかりと笑った。
僕はなぜか、ぞくりとした。
え? 『にかり』?
『にこり』じゃあなくて?
僕らが顔を上げる前に、先生はぽかりと一発ずつ、僕らの頭を叩いた。もぐらたたきみたいに、僕らは頭を引っ込めた。
「なーんてね! あなたたち、何本気にしてんのよ。そんなドラマみたいな話あるわけないでしょ!」
そして、あははっと笑った。僕らはぼうぜんとした。
ええと、それっていったいどういう意味ですかセンセイ?
先生は口を半開きにして突っ立っている僕たちの顔を面白そうに見つめてから、
「だーから言ったでしょ。あんたたちは、わたしには勝てないの」
って、意地悪そうな顔して笑った。
はいい?
「つまりそれって、今の話は全部、嘘ってことですか?」
シンゴが、努めて冷静に聞いた。
「ホントに全部?」
僕も聞いた。
「じゃあ、その写真は誰なんですか?」
「先生の家族」
ケロリと言った。
「なんだよそれー!」
ショータが叫んだ。先生はどこ吹く風とばかりにすまし顔だ。僕は苦笑いした。なんだよ、それ。
先生は僕らの反応を存分に楽しんだ後、
「さあさ、今日はもう遅いから、はやくおうちに帰りなさい。お仕置きは、明日たっぷり用意してあげるから」
「えー! おしおき?!」僕らは一斉にブーイングした。「さっき、怒らないって言ったじゃんか!」
すると先生は、にっこりと笑った。何か文句でもあるのかしら? 余裕たっぷりの心が、顔中ににじみだしているみたいだった。
「怒らないとは言ったけれど、お仕置きがないとはいってないわよ」
ショータが怒鳴った。「そんなのズルイ!」
「ズルくありません。それから、先生と話すときは敬語だったわよね、オオハシくん?」
先生からキラリと睨まれて、ショータは小さく「はい」と返事した。
先生は、じゃあまた明日ね、と言って、僕らに背を向けた。僕は、一度だけ聞いてみようと思って、先生の背中に呼びかけた。
「先生」
先生は、立ち止まった。
「先生は、ホントはいくつなんですか?」
すると先生は、一言、「さあ?」って言って、運動場の方へとサッソウと歩いていった。その目が、なぜか悲しそうだったのは、きっと気のせいだ。うん、絶対そうだ。だって、悲しむ理由なんてどこにもないんだから。
学校からの帰り道、長い影を重たそうにひっぱりながら、僕らは並んで歩いていた。先生からのおしおきはまだ受けてないけれど、黒い影と赤い太陽をみているうちに、この帰り道そのものがおしおきみたいに思えてくる。僕らは結局、なんの『戦果』もあげられなかったんだ。こんなのって、ヒドイ。
「なんだか、結局僕らって、遊ばれてただけみたいだね」
そう言ったシンゴの頭を、ぽかりと小気味いい音を立ててショータが叩いた。僕も一緒に叩いた。思っていることをそのまま口に出す男は嫌われるんだ。シンゴは、納得いかない顔して頭をさすった。
先生が行ってしまった後、僕らも帰ることにした。どうも引き下がれないショータは、悔しそうにしていたけれど、僕とシンゴはちょっとホッとした。犯罪者にならなくて済んだんだし。それに、怒られなかった。おしおきはいやだけど、まあ仕方ない。いつものことだ。
「くっそお、あの先生いつもはノーテンキな顔してるくせに、あんなときだけ変に頭まわるんだから。ぜってーいつか、先生の歳を暴いてやるぜ!」
ショータは復讐の炎に燃えていたけれど、もう勘弁してほしかった。楽しかったけど、あんなに心臓に悪いことはもう二度とおことわりだ。こうして、僕らは家へと帰った。結局、オトナのなぞは何一つ解明しなかった。なんだか、今日はずいぶん長い一日だったなあ。
まだまだ納得のいかないことばかりだけど、オトナの世界なんて、そんなもんなんだと思う。僕らはまだよく分からないけれど、いつかはわかるときが来るんだろう。
だって、僕らもオトナになるんだから。
タナカ先生の歳も、そのとき、わかるのかもしれない。
太陽はずいぶん沈んだところにあって、僕らの一日のおしまいを、赤く照らしていた。
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