カルマの坂

「世界はどうしてこんなに乱れているのだと思う?」
 突然、ラッシュが言った。俺はなにを聞かれているのかわからずに、ラッシュの顔を見上げた。ラッシュは俺よりはるかに背が高い。座っていても、俺の背はラッシュの肩辺りまでしか届かないのだ。
「だから、世界がこんなに乱れているのは、どうしてだと思うかって聞いているのさ」
 ラッシュは、もう一度言った。
「なんだよ、それ」俺は笑いながら答えてやった。
「そんなもん、乱れてるから乱れてるんだろ」
 するとラッシュは、やんわりと首を振った。
「この世界には、神様がいないから」
 なんだよ、それ。
 ラッシュは、なにも考えていないようにへらへら笑っていやがる。俺はため息をついて、呆れて、ついでにちょっと腹が立って、ラッシュのマヌケ面を殴り飛ばしてやろうと拳を振り上げた。だけど、ラッシュはすんでのところでぱしんとそれを受け止めて、
「ざーんねんでした。キミは僕には勝てないさ」
 俺は左手で、今度こそ拳骨をお見舞いしてやった。

 リンゴという果物は、内側から腐っていくらしい。
 外側から見てる分には、内側の変化はわからないけれど、リンゴの中は着実に、腐食されている。気付いたときには手遅れで、どこにも食べれるところなんて残っていやしない。
 俺たちの住む世界は、今、腐っている。
 それはもう、リンゴのごとく。
 政治家のオエラガタは、立派な髭を生やすことは得意なクセして、そのほかのこととなると何一つ一人前にできやしない。
 この町の人間は高い税金をかけられてあっぷあっぷしている。
 都市部はまだいいほうだと聞くものの、治安はものっすごくわるい。路地へ入れば秒殺で麻薬売人と仲良しこよしになれる場所だ。
 とにかく、世界は腐っている。
 なにが世界をこんな風にしたのか、俺がしったこっちゃないけれど(ついでに知りたくもないけれど)現在進行形で世界は腐っている。
 昔、俺がこの世に生を受けるよりもずっとずっと昔には、この世界はまだ捨てたものじゃあなかったらしい。政府は事件が起こるとちゃんと対応してくれていたし、住民の苦情に耳を傾けてくれた。生ゴミが公園のゴミ箱に溢れかえる日なんて一度もなかったし、人の死体が当然そうな顔して路上に転がっているなんてこともなかった。
 らしい。
 まあ、どのみち俺には何の意味もないことだ。昔の栄華を思い出せるわけでもなければ、今の治安がよくなるわけでもないわけだし。
 世の中の大人たちにとっちゃあ、俺たちのような家のない子どもに気を止めているくらいならば、服についた糸くず一本を気にした方がずっと自分のためになる。俺たちは、糸くず一本ほどの存在価値ももっていない。
 腐ったリンゴは捨てるしかないと、俺は思っている。

「さあて、そろそろいきますか」
 となりであくびをしていたラッシュが呟いた。パン屋のシャッターががらがら開いていった。俺はうなずいた。

 腐ったりんごは捨てるしかない。
 だが、りんご畑に生きてるネズミは、そう簡単に死ぬわけにはいかないのだ。
 たとえそれらが、糸くず一本の価値より低くとも。



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