カルマの坂-3
 この町が世界全体から見てどの程度の価値があるのかは知らない。知りたくもない。
 とりあえず、この町には商品をかっぱらえる店がある。
 ゴミ箱をあされば、適当に食べ物は見つけられる。
 この町では飢え死にしない程度に生きてはいける。
 俺にとって重要なのは、それだけだ。
 以前、ラッシュにそう言った事がある。するとラッシュは苦笑いに似た笑みを浮かべて、
「キミは本当に純粋だね」
「……おちょくってんの?」
「いやいや、違うよ。本気さ。君たちの心は、世の中の大人たちよりも、ずいぶん透明だ。キミのような生活をしている子供は、みんなそんなことを思っているのかい?」
 俺は肩をすくめた。この男、この町にやってきてどのくらいになるか知らないが、少なくともそこらの大人よりはましなヤツだと思っていたのに。そんなことを聞いてくるとは、まだまだアマい。
 この町で生きる奴らには、きっとその程度のことを考えられる頭しか持っていない。それになにより、ほかの事を考えられる余裕もない。生きてくだけで精一杯だ。
 俺はなにも言わなかったけれど、ラッシュは納得したようにうなずいた。例の、俺の癪に障る笑みを浮かべて。
「そうか」
 そのときの笑みが、なんていうかな、哀れむ? いや、ちょっと違う。……そう。 どこか、悲しそうに見えたんだ。
 たぶん、光の加減でだろうけれど。

 さて、手際よくパン屋のパンを強奪した俺たちは、『隠れ家』へ続く坂を駆け上がっていた。後ろのほうで、パン屋のおやじが手を振り上げて悔しがっているけれど、追いかけるのは途中であきらめたようだった。当たり前だ、ぶくぶく太ったあの野郎が、この俺に追いつけるわけはない。
 ラッシュが俺の後について、坂道を登ってくる。
「はーあ、やっぱ君には追いつけないよ」
 当たり前だ、大人なんぞに追いつかれてたまるか。
 本日の収穫はパン三つ。それと、牛乳一本。生きるために必要な最低の量だ。食べれるものなら腹いっぱい喰いたいけれど、そんな時間も余裕もない。だが、これで俺たちは、今日という一日を飢え死にする心配なく過ごすことができる。
 俺たちが『隠れ家』と呼んでいるのは、もとは屋根があったのだろう木の枠を腐りかけた柱が支える、多分停留所だった場所。そこを布と木箱でコーディネートしてやれば、雨風をようやくしのげるくらいにはなる。それでも路上に寝ているやつよりかはずいぶん上等な暮らしをしているはずだ、雨風を心配するぶん体力を使わなくてもいいのだから。
 隠れ家についた俺たちは、早速収穫物にありつこうとした。パンは三つ、牛乳は一本。割り切れないけど、二人で奪ってきたものだから、均等に分けなければいけない。
 パンを真剣な目で睨み、ミクロン単位で正確に分けようとする俺を見て、ラッシュは、
「いいよ、僕は。君は成長期なんだから、多く食べないと」
「何言ってんだよ。二人でとってきたんだ、二人で分けるのが当たり前だろ」
 と、完全に二等分されたパンを俺はラッシュに押し付けた。ラッシュはすこしビックリしたように目を開いて、だけどすぐにいつもの笑いを取り戻して、
「いつも思うんだけどさ、君って本当に変わってるよね」
「変わってるって、どこがだよ」
 当たり前のことだろうが。それよりか、俺はラッシュの方が俺の何百倍も変わっている。もっと率直に言うと、変だと思う。
 俺の問いに、ラッシュは笑ってただ一言、
「そういうところがさ」
 答えになっていないと思ったけど、これがラッシュの答えなのかもしれなかった。だけど、俺には何のことやらさっぱり分からなかった。こいつと話すと、いつも調子が狂う。
 俺は話題を変えた。
「お前ってさ」
「ふん?」
 ラッシュは口にめいっぱいパンを詰め込んで、そのままで答えた。さっき全部俺にくれるって言ってたのはどの口だ。
「ほうひはんふぁい?」
「……いや、別にたいしたことじゃあないんだけど」
 本当にたいしたことじゃあない。でもラッシュは、俺が何を言いかけたのか気になるらしく、粉っぽいパンを牛乳も飲まずに無理やりパンを流し込むと、
「一度言おうとしたことを途中でやめるのはブシドーに反するとは思わないかい?」
 と、やっぱりわけの分からないことを言った。こいつは変だ。変人だ。
 だが、これはまたとない機会だったので、俺は言ってみた。
「お前さ」
 ラッシュは粉パンにむせてがほごほ咳き込んでいた。
「あー苦しかった。で、なんだい?」
「……お前ってさあ」
「うん」
「何ものなんだ?」
 俺とこの男、実はお互いなにも知らない。本当の名前さえ知らない。ちなみに、俺がこいつを『ラッシュ』と呼んでいるのは、一週間ほど前、この男を路上で空腹のあまり行き倒れていたのを気まぐれに助けてやったとき、
「あんた、名前は」
「君は?」
「俺には名前なんて無い」
「なるほど、じゃあ僕もそれで。好きに呼んでくれて構わないよ」
 便宜上、『おまえ』とか『男』では他との区別に困るので、俺はこいつに名前をつけてやることにした。
「じゃ、『ラッシュ』」
「なかなかいい名前じゃないか。どういう意味だい?」
 ゴミってのは、どっかの言葉で『とらっしゅ』と言うらしい。
 ――で、そのついでだからお互い協力して、食料調達とかやっているというわけで。
 なにものだ、の問いに、ラッシュは牛乳を飲もうとしていた手を止めた。それからすぐに笑いをこらえたような顔になった。
「本当にたいしたことじゃあないね。何ものであろうと、僕は僕、君は君。この町で生きてきたんだ、そのくらいのことは分かっているはずだろう?」
 しごくもっともなことをいわれて、俺は何も言えなかった。牛乳で残りのパンを飲み込んでから、俺はふと思いついて、
「……だってお前、一般市民じゃあないだろ」
 これは実は、前から考えていたことでもあった。
「なんで」
 ラッシュは微笑をくずさない。腹の立つやつだ。俺はせいぜい嫌味をいってやろうと決めた。
「……そこらのゴロツキより礼儀正しい」
「なるほど」ラッシュは認めた。「それから?」
「世間知らず」
「うーん、肯定したくはないけど」
「変人」
「失礼だな」
「それから」
「まだあるのか」
 ラッシュの服は、俺のと同じようにぼろぼろだ。泥の茶色い染みなんて気にならないほど汚れに汚れて、原色がわからなくなっている。あちらこちらにあいた穴は繕われることもなく放ったらかしになって、そこからさらに広がって大きな穴を作っている。
 とまあ、見た目は「この町の住人」なのだが……。
 闇の中からやってきた人間は、闇のなかでも目立たない。だけど、光の中からやってきたヤツってのは、どんなにボロイ服を着て、顔を汚して、言葉遣いを汚くしたところで、もってきた光ってのは消えない。
 闇は、光には絶対に勝てないものなのだ。
 それに、俺は知っている。こいつが時々、俺を、俺たちを探るような目で見るときがあるってことを。
「どうしたんだい?」
「やっぱ、いい」
「なんだいそれ」
 ラッシュは笑った。そこで、会話は終わった。いつもこんなもんだ。ラッシュはのんびりした目で(こういう目をするあたりから、コイツは一般人ではない。この町の「一般人」は生まれつき、こんな目でいられるほど悠長な暮らしはしていない)町のほうを見た。
 高台にあるこの隠れ家からは、町の様子がよく見える。俺も町を見た。いかにしょうもない町でも、俺を生かしてくれていることには違いない。
「ありょ?」
 ラッシュがヘンな声をあげた。
「なんだよ」
「あれ、なんだい?」
 指差す先には、おおきな荷馬車が停まっている。そこからおろされているのは家畜ではなくて、人の群れ。ぐったりと頭を垂れて、手と足を封じられて、一人ずつ檻に入れられている。
 別に珍しくもない。俺はラッシュの眺める方は見ないで、平然と言ってやった。
「奴隷だよ」
「……ふうん」
「そんなもん見ても仕方ないだろ」
 俺が言っても、ラッシュはそこから目を逸らそうとはしなかった。俺は少しイライラした。
「なに見てんだよ。面白がって見るようなモンじゃねえだろ」
「……この町では、人は人として扱ってもらえないんだね」
 平和な国に暮らす子供が、世界には何十年も戦争を続けている国があることを知ったとき、まさにこういう声は出るんだと思う。
 俺はつい言い返しそびれてしまった。だから、やっとのことでこれだけ言った。
「――仕方ないだろ」
 慰めるつもりではなかった。慰めにもならない。でも、ラッシュはそれで、少し気をとりなおした。
「みんな、平等に生まれてきたはずなのにね」
「……はあ?」
「ヒトは皆平等なんだよ」
 俺は笑った。
「知らねえな。どこのペテン師のセリフだ、それ」
 ラッシュはまた町のほうを見下ろす。奴隷の群れのなかには、パン屋の前で警官に連れて行かれた男の姿も交じっていた。
 彼らを乗せた馬車は、重苦しい足取りで、夕陽の坂道を下ってゆく。
「仕方ない、か」
 その言葉で、世の中のすべての不条理が片付くのなら、俺は何度でも言ってやる。
 実際、俺のできることといえば、仕方ないといってあきらめることだけなのだ。


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