カルマの坂-5


 はじめて見たとき、俺は本当に、天使を見たのかと思った。っていっても俺は天使なんて実際見たことないから、彼女が本物の天使だったとしても、俺は気がつかなかっただろうけれど。
 とにかく俺は、天使を見た。それくらい、きれいな人だったんだ。俺は逃げることも、息をすることさえ忘れて、立ち尽くしてしまった。
 それは、俺が立っていることに気がついて、顔を上げた。
「こんにちは」
 天使がしゃべった。俺はなにもいえなかった。天使は首をかしげた。
「どうしたの?」
 俺ははっと我に返った。天使なんて、いるわけないじゃないか。それからすぐに、盗んだパンを抱えていることを思い出して、俺は走り出そうとした。
「あ、まってよ。お話しない?」
 普段の俺だったら、そんなことくらいで立ち止まることはしない。絶対しない。けれど、俺は立ち止まってしまった。ゆっくり後ろを振り向いて、そいつの背中に羽は生えていないことを確かめて(バカみたいだ)俺はおそるおそる、そいつに近寄った。俺が近づいたら、神聖なものが汚れるんじゃないかと思った。ちなみに俺は本気だ。
 天使――のように見えた「そいつ」は、くすくす笑っていた。
「君は、ここに住んでいるの?」
 俺はうなずいた。はやいことこの場を逃げた方がいい事はわかっていたけれど、この少女と話がしたかった。
「わたしと同い年くらいだよね」
 少女が聞いた。俺は「忘れた」と答えた。少女はそれで納得したようだった。
「……聞かないのか」
 俺は聞いてやった。
「何を?」
「どうして俺はこんなボロイ服を着て、路地裏を逃げていたのかってこと」
 少女は突然、思い出したような顔をした。それから不思議そうな顔をして、
「だって、君と話をするのにそんなことは関係ないでしょ? 君が泥棒さんでも、わたしは君と話がしたいんだもの」
 俺は最初、こいつを天使だと思ったが、実はこいつはとんでもない変人じゃあなかろうか。
 ふと、俺は気がついた。着ている服は上等そうだから、きっとこの少女は金持ちの家に生まれた子なのだろう。なのに、なぜこんなところにいる?
 俺の疑問は、すぐに解消した。
 ――手足に、鉄の枷がはめられている。俺はじっとそれを見つめた。
 少女は俺が何に気がついたか知っているはずなのに、なにも知らないかのように、にこりと笑った。
「わたし、今日はじめてこの町に来たんだ」
 いろいろ教えてくれない? 少女は言った。
「この町って、どんなところなの?」
「腐ったリンゴ」
「?」
「あんたみたいな……その……きれいな人が来るようなところじゃない」
 そんな姿で。
 少女は首を振った。
「仕方ないよ」

 俺は思い出した。
 俺たちは、どんな理不尽な出来事も、仕方ないとあきらめるしか術がないのだ、ということを。

 そのとき、どこかで人の声がした。こっちへ向かっているようだ。もうずいぶん長居をしてしまった、そろそろ帰らなければ。
「じゃ俺、もう行くよ」
 少女はそれをわかっていたかのように、「じゃあね」といった。
「君、明日もここへ来る?」
 なんでそんなことを聞くんだ、こいつ。
「来るわけないだろ、俺は忙しいんだよ」
「そうなの?」
「いや……」
 どうも調子が合わない。
 俺は黙ることにした。それが一番問題なさそうだった。そいつも黙った。ぼんやりと人の流れを眺めている。俺もそれにならった。警官が一人こちらを見たが、俺はパンだけ隠して、あとは素知らぬふりを決め込んだ。警官は、なにも気にしない風で通り過ぎていった。この町はそういう町だ。
「おまえはさ」
 俺は口を開いた。
「おまえは、なんていう名前なんだ」
「わたしの名前? 気になる?」
「……べ、別に」
「君が教えてくれたら、教えたげてもいいよ」
 可愛い顔して腹の立つやつだ。
「俺に名前なんてない」
 俺は言った。名前なんてものは、呼んでくれるやつがいるから存在するものなのだ。
 俺の名前を呼んでくれるやつは、この世に存在しない。母親さえも、名を呼ぶことなくどこかに行っちまいやがった。呼ばれない名には意味がない。だから、俺には名前がない。
「じゃあ、わたしも同じ」少女は言った。「呼んでくれる人なんて、いなくなっちゃったから」
 それはつまり、以前はいたということだろうか。
「それでいいのかよ」
「何が?」
「おまえはこんなところでじっとしていて、いいのかよ」
 すると、少女はにこりと笑った。
「大丈夫。神様は、いつもわたし達のことを見ていてくださるわ」
 ――はあ?
 今、このバカはなんつった?
 俺は笑って言ってやった。
「この町には、神様なんてものはいねえんだよ」
 すると少女は俺の答えを予期していたかのように――うなずいた。
 それから、突然、わけのわからないことを言った。
「パンドラの箱に最後まで残ったもの、何か知ってる?」
 ホントに、何もんだろうか、こいつ。俺は知らないと答えた。たとえ知っていても答えてやらなかっただろうけど、こいつの話に少し興味があった。
 そいつは、夢でも見ているような目をして言った。
「パンドラの箱っていうのは、神様が人間に授けた、あけてはいけない箱のことなの。でも、人間は箱を開いてしまった。すると、箱に入っていたものはすべて飛び出してしまった」
「……バカじゃん」
「でもね、最後にひとつだけ、箱の中には残ったものがあった。それが――」
 希望。
 世界に最後、たった一つだけ残るもの。
 俺はなにもいえなかった。あほらしさと、呆れと、――それから。
「だからわたし達も、最後の最後まで、希望は捨ててはいけないの」
 少女は言った。
 ――それから、もしかしたらそうかもしれない、と思って。
「わたしは、どんなときでも希望は捨てないよ」

 きっと、彼女は本当に天使だったのだろう。
 自由の翼を封じられて、この薄汚れた町へ来ても、彼女は光を失うことはなかった。理由はそれで十分だ。

「ねえ、明日も来てよ。わたし、あなたともっとお話したい」
 とか言われて小首を傾げられたので、俺は仕方なく――そう仕方なく、だ――首を縦に振った。少女は嬉しそうに微笑んだ。
「また明日」
 少女は鎖につながれた手を少しあげて、手を振った。俺はちいさく頭を下げて、それからすぐに走り出した。途中立ち止まって振り返った。少女の姿はまだそこにあって、俺のほうを見ていた。俺は一気に走り出した。
 ――また明日。
 明日に希望をもったのは、これが初めてだった。
 へんなやつ。あいつは変だ。変人だ。
 でも、あいつは、この町で、一番まともなやつなのかもしれないな。
 明日も、あいつと話をすると思うと、なんだか変な感じだ。同年代の人間と話をしたのは初めてかもしれない。だからなんだろうか? 変な気分だけど、こういうのは悪くない、と思った。

 本当は、俺は、知っていたんだ。
 なぜ、少女があんなところにいるのか。
 なぜ、鎖に繋がれているのか。
 だけど、俺は信じたかった。
 「あいつはこの町を見守るために降りてきた、天使だ」って。
 そうすれば、俺は救われる気がしたし、そうでもしなきゃ、救われない気がしたから。
 ――いや、救われようだなんてことは思っちゃいなかったんだな。
 ただ、俺は思った。
 どんなときでも、どんな場所でも、希望はあるもんだ、と。
 彼女は、俺が初めて持った「希望」とかいうものだった。

 結局、最初で最後になってしまったのだけれど。

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