とんでもないもの --------------------------------------------------- とんでもないものを見つけたクポ! あんまりビックリしたから 頭のポンポンがとれそうになったクポ! とんでもないものが何かって? それは行ってのお楽しみクポ! ttp://www.mistwalkercorp.com/jp/column/index.html プレゼント --------------------------------------------------- ◇30AP ◇☆銀のペンダント あやうく私は M H Z(Majide Hana-di Zenkai) 2010.11.30(tue)23:30 電車内の吊広告。 「ツヤっと輝く 40代女子力」 ?! 「ツヤっと輝く 40代女子力」 お、おぉ……。 基本的にファンデーションをしないので始終ほっぺがテカっとしている、絶賛・油・ノリノリな20代、ごまめです。ツヤっと輝く女子力。宝島社から新創刊された、40代女子向け雑誌「GLOW」のキャッチフレーズだそうな。"grow"には、「(炎を上げずに燃える)輝き、白熱」「(色の)あざやかさ、明るさ」「(身体の)ほてり、ぬくもり」などなどの意味があり、ようするに、「あたしたちだって、まだまだ現役女子なのよ!」ってことかしら。売り切れ御免の大人気で、現代社会を生き抜く40代女性が、いかに「女子力」を求めているかが分かるというものです。振り返ってみれば、自分の母が四十代だった頃、私は小学生でしたが、もっと若々しくあってほしいものだと、確かに思ったものです。 いや、だが、しかし、ムカつきませんか、これ。 私はムカつきました。寝不足だったせいもありますが、「40代」の「女子力」、この取り合わせにムカつきました。「女子」と名乗ることを、つまり「若々しくあり続けることは正義!」とでもいわんばかりの主張の仕方に、私はムカついたような気がします。ムカついたという言い方が少し不適切なら、とんでもなく違和感を感じた、それは「40代」にとって不適切だと思った、のです。 取り急ぎ言わねばならないのは、「40代なら40代らしく、おばちゃんの節度を身につけろよ!」というような、年齢に対して差別発言をしようというのではない、ということです。くれぐれも。私は若いと自負する若輩者で、ファンデーションを塗らないのはお肌に自信があるのではなく、弁当作るか寝てるかどっちかしているせいなのです。 さて。 はたして、このことばは、大々的に宣言されるべきものだったのでしょうか。 私が女子、ということばを最も使ったのは、小学生高学年から中学生にかけて、だったと思います。通った高校が九割方女子高だったせいもあるのでしょうが、それでも、「女子更衣室」や「女子トイレ」ということばは、会社のソレというよりも、学舍にふさわしい気がします。会社ならこれ、「婦人更衣室」「化粧室」「婦人用トイレ」ではないでしょうか。でもまあ、女子そのものは「女」という意味であり、とくべつに、こどもを意味するものではないので、どこで使われようと不適切ではありません。 ところで、学校においての「女子」は、基本的に、団体としての「男子」と区別するために使われていました。「男子はバカばっかり」と言ったり、「ウゼー女子」という時の「男子」「女子」は、あきらかに、特定個人を指すことばではなく、逃れようもなくそこに属している人間に向かって発せられている。「男子」「女子」であることは特権でもあったし、逆に言うなら、自分の力ではどうすることもできないものだった。そこでは「女子力」なんてものが存在する余地がありません。「男子」と対の「女子」は、どうしようもなく「女子」なのであり、特別磨かれる必要もなければ、時には疎ましいものだったのです。 ってこれ、今考えたので、学術的にドウだとか、まったく分からないですけど。 そういうのが、学校というフィールドを飛び出して一般社会のなかに潜り、めぐりめぐって、 「(男性にとって魅力的な)女性らしさを身につける」 ↓ 「(ライバルたる同性や自分に負けないための)女子力を磨く」 と変換されるようになったのも、分からなくはありません。 しかし。学校内で主に使われていた用語が一般社会にひろまるとき、それが用いられる場には、少なからず、「未熟な人間」の要素があるのではないか。本人が意識する・しないにかかわらず、それは、あるのではないか。たとえばこの「40代の女子力」というキャッチフレーズを今まで誰も使わなかったのは、「女子」として指されているのはせいぜい20代、「社会的な立場としても未熟な(おそらく未婚の)女性」に向けて発せられたものだったのではないか。既婚で、人生も折り返し地点に差し掛かろうとしている人間を「女子」と呼ぶことは失礼なことだったはずなのです。 それを、40代のおそらく既婚、ダンナとはご無沙汰で、こどももそこそこ大きくなり、パートか主婦か正社員かは知らないけれど、少なくとも人生というものに対してそれなりにキャリアを積んだ女性に向かって「女子力を磨こう」と呼びかけ、しかもその呼びかけにこたえてしまうということ、それが、どうも、気持ち悪い、と思ったのです。 繰り返しになるけれど、40代女性が若々しくありたい、というのが、おかしい、節度を持て、というのでは、ないのです。もっとも男性だろうと同じです。若々しい男性はほんとうにかっこいいし、若々しい女性は凛々しいのです。 「女子」にあるのは、ひたすらに「かわいらしさ」、庇護されるべき「かわいらしさ」であり、そこには「凛々しさ」はありません。間違ってもこの二つは両立しません。この雑誌を読んで真に「女子力」を磨けるのは、おそらく既婚女性であり、未婚・独身の40代女性は、どんな形であれある程度「凛々しく」あらざるを得ないのではないでしょうか。 考えながら書いて、書きながら考えたために、ただでさえ助長になりがちな文章に拍車がかかって助長になってしまいました。ちなみに、私が目下想像できるところの「凛々しさ」とは、中学生のときの国語の担当F先生であり、『ハウルの動く城』のソフィーが、家主ハウルの不在時、空爆を受ける街のなか、マルクルやヒン、おばあちゃんたちと生き残るために必死になったときに見せた「母親の顔」だったりします。F先生元気かな。 2010.11.30(tue)21:43 そもそも、村上春樹の作品に苦手意識を抱いたのは、『ノルウェイの森』を読んでからでした。 母が絶賛したのです。めちゃくちゃ人気で、今をときめく作家の書いた、純愛小説だ、と。当時中学生の私、いっちょまえに「読書が趣味」なんて言い始めた頃(当時読んでいたのは基本的に「電撃文庫」にも関わらず)だったので、これは読んでおかねばと鼻息も荒く読了。そして感想。「これのどこが純愛?」 だって、主人公の僕(ワタナベくん)と直子の月光の下でのベッドシーンなんて、読むことだに恥ずかしくって直視できないし、文体は英文直訳みたいだし、人妻とまでナニしちゃうし、その人妻は同性愛の幼子にナニされてるし、とにかくもう、いろいろ衝撃的だったわけですよ。 で、まあ、私は『ノルウェイの森』一冊読んだ時点で、思いました。「村上春樹、ムリ!」と。 その数年後に発表される『海辺のカフカ』も、母がなぜかノリノリで購入してき、そのころは高校生になっていた私にも読んでおけと勧めるので読み、なおいっそうのこと、苦手意識だけを増幅させたのでありました。 『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』のダブルタッグにより、私の「村上春樹嫌い」は決定づけられたのです。 その後たしか高校の間に『神の子どもたちはみな踊る』を読み、「あれ、これはなんかおもろい」と思ったりもしましたが、それだけで、(ちなみに『神の〜』のほうは今や内容の八割忘却の彼方)特に好き好んで読むワケでもなく、卒論に取り掛かる必要性が生じてくる間際まで、村上春樹は私にとって、とてもとても苦手な、「近寄りがたい」ものだったのです。 思い返せば母がノリノリで「村上春樹」なるものを進めた理由とは、とどのつまり、「人気があるから」といった理由だったのでしょう。村上春樹作品は、『ノルウェイの森』大ヒットをきっかけに、ちょうどロシアやアメリカなど、外国でも読まれるようになったところで、本好きを称する人間ならば「読んどかなくちゃダメ」な作品だったのでしょう。このへんの事情は今でもあまり大差ないところでしょうけれど。 さて、卒論を書きすすめる段階になって、私が発作的に選んだテーマ(私「社会学って、どんなテーマでやったらいいっすか?」、教授「家族とか教育とか文学とか」、私「あ、じゃあ文学にします」)の必然性により、「村上春樹」を手にすることになりました。とりあえず読むべきは『風の唄を聴け』だというので、読み、その後手にした『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で、私は「村上春樹」について、考えを改めることとなったのでした。 「村上春樹、おもろいやないか!」と。 その後も村上春樹作品を読み、やはり私は同じ感想を抱きます。「村上春樹」は面白い。それは、卒論製作時に私のメンタル的などこかしらにおいて、何かしらの大転換を迎えたとか、特にそういうのでもないのでしょう。確かに読み方は変わったと言わざるを得ない、手にする本は「電撃文庫」ではなく、「ちくま書房」あたりが増えてきたのは事実です。しかし、「私は変わった!」といえるなにかしらがあったというのではなく、中学生の時には問題にすらならなかったことが、今の私にとっては重大な問題でであり、その問題に即した事柄を、「村上春樹」が小説というもののなかで書いていた、そういうことなのでしょう。 そういうわけで、何が言いたいかというと、 「『海辺のカフカ』まじでオモロイ」 やばいぜ。この土日をまるまるカフカに費やしたんだぜ。といってもまだ読了していないので、これから蒲団のなかで読もうと思います。 ごまめでした。 2010.11.28(sun)21:55 お口のなかが「かむかむレモン」全開です。ゲップの味まで「かむかむレモン」とはこれいかに? いわゆる食べ過ぎですか。ボトルで買うのは地雷な予感がしていたのです。おかげで、その前食べたキウイとグラタンの味はけし飛びました。久しぶりに料理をしたら、グラタンの小麦粉に塩コショウするのを忘れていて、ひたすら小麦粉と牛乳の味のするグラタンでした。って、当たり前か。まぁ美味しかったのでいいです。ソーセージ入れたし、薄味で。 ごまめです。 いやはや、です。 職場の先輩が、少し興奮気味に「北朝鮮が二発目だって」と教えてくれました。 最近の情報源がテレビ(基本NHK)かネット(ゲーム情報・趣味情報入手用)なので、おそろしく情報が偏っています。新聞くらい取ろうかなあ。しかし読む間もないし、毎朝まともに新聞を読めるほど落ち着いた精神状態でもないので、もうちょっとしてからでいいかと思っています。取るなら朝日かなあ。ばあちゃん家でも、実家でも取っていたし。途中から実家は(朝日の集金屋さんが三カ月に一度のサービスをケチったことを理由に)毎日になりましたけど。個人的には朝日と産経をならべて読みたいところですが経済的に不可能です。 北朝鮮の動向がどういうアレかは特に気にならないのですが、その情報を「少し興奮気味に」(といっても、カギカッコで括ったように、あくまで私の主観にすぎず、そんなこともなかったよと言われたら、そういうことになってしまう、その程度なのですが)語ってしまうということは、どうなんだろう、そのとき、2001年9月11日の出来事を、私は思いだしたのです。事件当時私はお風呂に入っていました。お風呂から出ると、父と母がテレビの前に座って『報道ステーション(当時はまだニュースステーションだっけ?)』を見ていました。アメリカで大変なことがおきた。テレビのなかでは、高いビルからもうもうと煙が立ち上っていました。飛行機がぶつかったらしい。最初は事故だとおもい、なんてことだ、こんな事故があるんだろうかと思いました。そして間もなく二機目がビルに激突した時、私はそれでもなお、一瞬、事故ではないのかと思いました。そして二本のビルが崩れ落ちたところも、たしか、ずっとテレビで見ていたはずです。でも、私はそのとき、特になんの感慨もなく、なんだろう、何が起こっているのか分からなかったし、それは余りにも遠い出来事であったのです。これが何かの転換点なのだろうか、そんなことも、多分考えたのだと思います。大変な出来事なのだなあ、きっとそうなのだろう、しかしその出来事は、私のどこにも特に目立った影を落とすことはなかったのです。 私はテレビのなかで起こる出来事しか見ていません。それどころか、こうして手に触れるもの、目に見えるもの、聞こえるもの、どれが夢で現実なのか、その判断を誤りながら生きています。おおかた生きています。テレビのなかの出来事が映画なのか、「現実」なのか、その内容に憤ったり興奮したり驚いたり、と、確かにそうする私なのですが、一拍置いた後、チャンネルを変える私は、もうその憤りや興奮や驚きを、忘れてしまって、いるのです。だから、それらは、夢なのかもしれません。私はあらゆるものを忘れ続けます。忘れ続ける私に、ビルが崩れたり島が砲撃されたという出来事に対し、間違いなく「事実」でありどこかで誰かが「体験」しているであろう現実に対し、何らかの感情を、怒りや、憤りや、驚きや、悲しみを、向けるということ、それがとても困難なことのように思えるのです。 それは私だけの問題なのかもしれません。平たく言えば「臨場感を感じられない」「共感できない」ということ、それは、私の感受性の問題なのかもしれません。でもそれならそれで構わないのです。つまりこれは私の問題なのです。「ちょっと現実感ないです」という私に先輩は、「故郷が爆撃されたって聞いたら心配だと思うよ」と言いました。ああたしかにそれはそうかもしれない。しかしそれでも。私は「現実感」を抱けるであろうか。それは何か、映画のなかに生きるような、そのようなものとして、夢のなかの出来事のようなものとして、受け止めるのではないだろうか。仮に今いるこの場所にミサイルが降ってきたとしても、状況は変わるだろうか。私は生きようとするだろう。なんとしても生きたいと思うだろう。だが一方で、なにか映画のような、夢を見ている感覚をぬぐい切れずに、ぼんやりと過ごすのではないだろうか。テレビのなかで泣き崩れる韓国の婦人を見て、私はああいう風に泣けるだろうか、と思ったのです。泣きたいかどうかは別にして、私はああいう風に泣ける身体性のようなものをまだ持っているのだろうか。と思ったのです。あの婦人の泣き方は、おそらく典型的な「悲しみにくれる女性像」にふさわしいものでした。それがよいことか、わるいことか、置いておくことにして、それでも、その悲しみには、そうせざるを得ない何かがあったと、思うのです、その悲しみを、私は同じ場所に立ったとき、共有できるのだろうか、と思うのです。 ついさっき、内田樹のブログで「危機的状況において論理的に思考できるひとが一番生き残る確率が高い」という内容の文章を読んで、ああそりゃそうだなあ、と思いました。しかしこれは、私の「現実感」にまつわる諸々は、危機的状況における論理的思考とは程遠いものなのだなあ。と、ちょっと書いてみて思った次第です。「論理的に」や「概念的に」といった言葉を、自分がしゃべるときに、口にださないことを、心がけています。そのような「論理」を私は持っていないのです。断言するのも少し危ないものですが、しかし、ここに論理はありません。ないのです。 いやはや、どうしたものか。 2010.11.27(sat)0:44 玻璃(がらす)の山のてつぺんに 黄金(きん)のお城がありました 城の塔にはお姫さま 囚(とりこ)になつておりました 王子は姫を救はうと 山のまはりを周ります 玻璃の山の滑らかさ 馬の蹄もいくすべり 落ちてのぼつて十九年 王子の剣も錆びました お姫さまは待ちつかれ つひに果かなくなりました 王子もいつか老(としと)つて 麓の村で死にました お城の姫の亡骸は 真赤な薔薇になりました 王子を埋めた麓には 青い竜胆が咲きました (「玻璃の山」西條八十) どうもこの詩に惹かれたのは、あれか、RPG(=昔話)的要素があるため、というのと、ガラスの山の持つ、つめたさと死の感触のせいでしょうか。曲もついているようなのですが、ネットで検索してもでてきませんでした。 ふたりが夢破れて死んでしまったあとに咲く、真っ赤な薔薇と青い竜胆が、想像するだに美しいと思うのも、この詩に含まれる「死」の成分なのでしょう。西條八十の詩にはそういう作品がおおい。ガラス細工のような幻想的な世界のなかに、ぽつりとまじる「死」が、とんでもなく、美しい。 2010.11.23(tue)17:37 母と祖母が上京していたので、にぎやかな二連休でした。 ごまめです。 ふと気付いたのです。 そういえばこのサイトはFF9サイトだったということに。 以下の内容だけ読んだら、なんかジャンプファンのサイトみたいになってるなあ。トップにイラストのひとつも飾っていないもんだから、もうなにがなんやらわからんでなあ。 まあ、構わないんですけどもね。 構わないんだけど、ちょっと思いついたので、たまにはFF9噺をしようとおもいます。 いまちょうどPSPで、マダイン・サリでダガーが過去を思い出すところから、イーファでのクジャとの対決を進めています。以下は、めおと団結成後の名シーン。自分の力不足に落ち込むダガーをジタンが励まします。 ダガー「ジタンが一緒にいてくれたからだわ わたしひとりじゃ外側の大陸どころかリンドブルムにも行けなかったと思う…… わたしのしたことってぜんぶ空回りしてた…… お母さまを止められなかった…… くじけそうな時もあった…… でもジタンがいてくれたから…… ううん、ジタンだけじゃない」 ジタン「そうだな…… イーファじゃ、ビビもエーコも 大陸出るときはクイナも…… ……フライヤ、スタイナーのおっさん 敵だったはずの、ベアトリクス……」 ダガー「忘れてないわ…… みんな無事だって信じてる でも……時々、不安になるの…… わたし……助けてくれたみんなの期待に ちゃんとこたえてるのかな……」 ダガーの言う「みんな」のなかに、サラマンダーがいない!!! いや。ストーリー的には当たり前です。サラマンダーが仲間になるのはこの後で、ジタンは彼とついさっき死闘を繰り広げてきたところなのだから。 それはそうと、私はFF9初回プレイ時(中一冬)Disk3での突然の転換に、おいてけぼりをくらった経験があります。「え? ジタンの過去ってなにそれ、ちょっとまって、なんかいい話はじまったけど(「独りじゃない」イベント)よくわからん!」て具合に。FF9はストーリーの完成度に定評がありますが、初回プレイ時の置いてけぼり感は、私だけではなかったはずだと思っています。 いままで重点的に心理面が描かれていたのはダガーだった。それが突然、ジタンの過去になり、出生の秘密にせまられた。たしかに、ジタンにしか読めない文字といった、少なからぬフラグはあったものの、これまでの流れ(アレクサンドリアの不穏な動きからはじまる「三国の戦争」をめぐる話)を一気にぶった切られるのが、Disk3のテラ突入以降ではないかと思うのです。 よくよく考えれば、サラマンダーの出現のときに、気付くべきだったのです。「盗賊」で「主人公」のジタン、いままで彼を操作してきたプレイヤーは、彼のことを何も知らないことに気付かなかった、ということに。これまでが、どちらかというと、ダガーの成長と苦悩、「なにもできないもどかしさ」に寄り添われた話であったとするなら、サラマンダーというのはFF9のメインキャラクターで唯一、最初から「ジタン」に注目している登場人物。(で、あるがゆえに、BL界における謎すぎるカップリングが生まれてしまったんでしょうけれども……まあそれは置いといて。) どこまでが意識的なのかしらないけども、つくづく、ゲームを作る人はうまいことやるなあ、と思うのです。 そうそう、FF9製作陣がわりかし多く集うゲーム会社「MistWalker」(←社名だけでテンションあがる。ちなみに『ブルードラゴン』『ロストオデッセイ』も手掛けたらしいです)の最新作、『LastStory』の発売日が決まったようです。なんかもう、これだけの為にWii買おうかと思うくらい、すてきな世界。 2010.11.21(sun)22:14 何者だのBOOKOFFでウキウキ『夢分析』(岩波新書/新宮一成)を手に入れたのが今週頭の出来事でした。今日は、 左から、「西條八十童謡全集(復刻版)」・「赤い鳥(復刻版)」・ジャンプSQ19秋号。 いやあ、もうなんだこの、素晴らしいのは。新橋駅の古本市に足を止められたが最後、今日がジャンプSQ19の発売日ということも一時忘れて買ってしまいました。まあ、全部ひっくるめてもさほど高額な買い物でもなかったのですけども、書籍をボーンと買う、というのは、いつも少し勇気がいるのです。それは何かしら、あれなのかな、これは私が求めている本なのか、私はこの本に求められているのかという、かけひきのようなところがあるからかもしれません。 西條八十の本は、「砂金(復刻版)」とあわせて持っておきたいところです。中身が袋とじ状になっており、これが当時の製本術のようなのですが、読むのがちょっと一苦労。だがそれがいい。「赤い鳥」は、そもそも西條八十の詩が載っていないものかとおもって手に取ったのですが、結局掲載はされていませんでした。でもあれだ、この憂い顔のおんなのこに惹かれて買ってしまいました。かなり保存状態のよい復刻版のようなのですが、いつ頃のものなのかは定かではありません。 古い本を見ると、パケ買いをしてしまいます。 ジャンプSQ19は、ここ数カ月定期購読しています。 といっても季刊なので、まだ三回目なのですが。 お気に入り連載陣は、内水融「アグリッパ-AGRIPPA-」、木村聡「地球侵略!コルレオウス」、古屋兎丸「帝一の国」と、あと読み切りで新人さんの上野祥吾という方の作品。通常のジャンプ作品から、もう一味きかせた作風の作家と新人作家の読み切りが多いことが特徴です。ただ、表紙が毎回アレなので、水着でボインなおにゃのこなんで、なかなか買いにくいんですが、そこはどうでもいい(元書店員的に。ちなみに一番気になるのは「BL漫画・小説を買っといてカバーも袋もいらないという客」……なんという電車で読みますフラグ。他人事ながらハラハラする。この点、耽美小説を買って帰るおじさまのほうが、カバー使用率は高い。どっちにしろ電車で読むのか。) お気に入りの「アグリッパ」ですが、ネットでざっくり調べた評判だと、「微妙」と「おもろい」にキレーに二分されているようです。 かつての内水融作品(「アスクレピオス」「カイン」「FOREST」)を知る人からしてみたら、「いやまて、内水はこれからが凄いんだぜ!」と思って読んでるし(←つまりやっぱりまだ加速しきってない気がするんだなあ)知らない人からしてみたら、「いつまでたっても導入が終わらない…」って気持ちになる。なにせ表題の「アグリッパ」が、作中においてどの人物にあたるのかが、まだ呈示されていない。順当に読み進めたら、反ローマ帝国同盟を率いる青年・ヴェルチン(暫定主人公)に、命をすくわれる少年タラニスが、そのポジションにふさわしい様にも見える。しかし、経歴的に無理があるとみるならば、「アグリッパ(初代ローマ皇帝の友人)」なる人物は、今後登場する人物名なのかもしれない。なんかその辺が、「出し惜しみ」しているようにも見えてしまうのが、最大の難点というべきところか。 ただ、「アスクレピオス」を読んでいて思った、「なんでこの展開を前半に持ってこなかったの……!」というモヤモヤはない。あ、これ、全開なんや、と思う。それが読んでいて気持ちいい。絵柄が似たり寄ったりになりつつある新人萌え系作家とは一線を画する、本誌唯一の「王道少年漫画」を貫いていて、そこも好き。ただときどき描写が画一的。泣き顔とか、殺陣といった見せ場が特に。 『打倒ローマ』を掲げる主人公ヴェルチンジェトリクス。捕虜にされているセクアナ(ヴェルチンの友人・ヴェルカッシの妹。文脈的には「主人公の思い人」だが詳細は不明)」を助けにいき、自分が囚われの身となってしまう。「自分が死んだら、軍(ローマ帝国に反旗を翻すガリア人の軍隊)を率いるのはお前だ」と友に言い残すも、主人公に命を救われた少年タラニスが「助けに行く!」と宣言するところで、今回の物語は終了。 ここで、主人公を助けに行くのが王道少年漫画。 ヴェルカッシがタラニスを張り飛ばし、ヴェルチンを見殺しにし、その後の物語主軸をタラニスが担うなら、青年誌漫画っぽくなる。容赦のないかんじが、「アスクレピオス」や「カイン」「FOREST」にも通じてると思う。そして個人的には、こちらを読んでみたいなあ。と、思ったりする。 内水融はやってくれる!と信じて三ヶ月後に期待をかける今日この頃。 いや、おもしろいですよほんと。単行本は来年二月に発売予定。 2010.11.20(sat)02:14 件の教授に電話をかけたところ留守だったので残念無念、とおもった一時間後にリダイヤルしてくださったら、 私「前教えてもらった本読みましたー。えーと、それから、」 教授「今、ぼく人とあってるところなんです」 ……教授。土曜のゴールデンタイムに電話かける私もどうかとおもいますが、なぜそのタイミングでリダイヤルを。あれやで、無駄にダラダラ話せるのは学生のあいだだけやで、ほんまに。 ごまめです。 今「かむかむレモン」食べてます。 止まらん。 で、まあ、「これ読みなさい。そして僕が『海辺のカフカ』読んだらまた電話します」とのことで、教えてもらった本を調べてみました。岩波新書の『夢分析』……。 ん? アマゾンで調べてどっかで見たと思ったら、地元のBOOKOFFで一度私が手に取り棚に戻した本でした。 なにものだ、あのBOOKOFF。 2010.11.14(sun)23:04 社会的なアレがナニしており、時間帯的にもあんまり大きな声で宣伝できないがゆえに、こうして声をひそめて、おすすめしようとおもいます。 ほんとにね、おもしろいんだなあ、「村西とおる」のブログが。 村西とおるという人は、トシゴロの男性ならば知らぬ人はおらぬであろう『夜の帝王』。まえにもちょろっと言いましたがサイトは18禁(対象は未成年男子?)。「この人の三年は私の一生分の濃度を持ってるんじゃないか?」と思えるくらいに、波乱万丈、怒涛の生活を送っておられる方です。政治のことから芸能のウラ情報まで、ブログに記される内容は、ありとあらゆる方面にむかっております。中国のはなし、政治のはなし、芸能界の大物のあんな話、こんな話……ほんとうに。なんて面白いんだろう、と。でも、ほんとうに面白いのは、そういう「こんな話」の部分ではありません。「こんな話」におりまぜて語られる、人生論が、人間の見方が、登場する人々の姿が、とにかく、面白い。 ブログで語られる話、体験の数々そのものが、ほんとうか嘘かはワカラナイとしか言いようがないのです。 でも、間違いなく、名文、そんなブログなのです。 不思議だなあ。にんげんを間近で見るってことはこういうことなんだろうか。すごいなあ。 2010.11.13(sat)01:41 映画、写真と同様に、電話もまた、『現実』を切り取る技術だといいます。 電話口の向こう側にいる相手というのは、突然自分の「となり」に現れた他人。遠くから徐々にやってくる他人ではなくて、突如けたたましくベルをならし、「私に気づけ!」と自己主張する他人、それはいわば彼岸からやってくる「亡霊」。電話口の相手とは、限りなく『現在(いま・ここ)』にちかい時間を共有していながらも、永遠に、絶対に、同じ場所にはいられない存在、「永遠に失われ続ける他者」でもある。わたしたちは電話の向こうの「亡霊」を、それを自分の見知っただれかと勘違いしながら、電話をしているのです。 みたいなことばっかり考えていたわけではないです。 おひさしぶりです。ごまめです。 今日立ち読みしてきたBOOKOFFで、庄司薫「赤ずきんちゃん気を付けて」の昭和47年に出版されたやつを見つけて、ついつい購入してしまいました。となりには、集英社の日本文学全集がずらーっと並んでました。 なんだこのBOOKOFF。 お近くには、いつ行ってもクラシックの流れるコンビニがあります。 なんだ、ここ? 2010.11.12(fri)22:24 「ターミネーター3」を観ています。 まあ、あれやね、ハリウーッドな映画やね。 映画について、何がハリウッド映画かなどと語れるほど、映画に触れてはいないのです。しかし、先日ブックオフから届いた『眠りと文学』(根本美作子/中公新書)によると、映画とは、「死」というものを一時的に忘れさせる機能があるものだそうです。「ダイ・ハード」みたいな映画などの主人公は「死にがたい」。死なない主人公の物語を、反復できる媒体(映画)で観るということが、「死」を忘れさせる。 同じように、写真も、「死」を封印する。『現実』の一部を切り取り、保存する。 うふふーん。難しいわ映画。難しいわ写真。でも何だって難しい。映画も音楽も文学も、面白いけど難しい。 ごまめです。 続けて読んだ『アメリカの夜』(阿部和重/講談社文庫)の文体が、何か知ってる、誰だこれ、と思ったら、蓮實重彦でした。一文の長くて回りくどい文体がそっくりです。蓮實重彦と柄谷行人絶賛の、著者のデビュー作だそうです。 面白いなあ。 2010.11.07(sun)22:24 母がケッコンし、子どもを生んだのは三十路直前で、それは今のように平均初婚年齢28歳という時代ではないものだから、たぶん相当にあせったことだろうなあ、と、その子どもであり独身二十代前半を生き抜くわたしは思っているのですが、その母が先日電話があり、 「でもあれやん、仲間由紀恵とか、三十なってもきれいやん? お母さんも、焦らんでもよかったかもしれんわー」 仲間由紀恵と自らを同列に語れる点において、母はオーサカのおばちゃんやなあ、と思いました。 ごまめでした。 2010.11.06(sat)23:24 ちょーい。 ちょちょーい。 読みたかった文章がここにあった。『平凡倶楽部 こうの史代』 やっぱこのひとの絵は、文章は、ぶんがくだ。『この世界の片隅に』を読んだ時の私の感想は的外れじゃなかった。あれは、紛うことなき、ぶんがくだった。 ごまめです。今日はひとりでラーメン屋さんでチャーハン、いわゆる焼き飯を食べて帰りました。Tokyoはラーメン屋さんまで丁寧な接客をしてくれるのでドッキドキです。ラーメン屋さんはもうちょっとガサツでもいいのにな。と思うのは、これも、なにかしら物語的なものを期待しているせいでしょうか。まあなんでもいいです。お腹が苦しいのは食べ過ぎではなく便秘ですが、最近顔が丸くなってる気がします。ぎゃあ…だがまあ、休日は外も出ずに部屋でごろごろしてるだけだからなあ。そこで明日は吉祥寺まで出向いて、ミシンの為に布を買って来る予定です。 それにしてもこの一週間は、すてきな文章にめぐり合うことができて至福でした。 田中小実昌『ポロポロ』(戦争もの、なんて呼んだら失礼なんじゃなかろうか、と思う「戦争体験記」……これもなんかちがうなあ)、マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(やべえぜ。愛だぜ。官能だぜ。)、そしてこうの史代。ツイッターで読む、内田樹さん(かわいい……。ニッポンの思想家、レヴィナス研究家が「かわいい」とは、これいかに)と高橋源一郎氏(タカハシさんがツイートする、「しんちゃん」と「れんちゃん」の毎日が魅力的)のツイートにいつもワクワクドキドキします。あとは、村西とおる(驚きの人生経験、まさかの十八禁)のブログもいい感じです。ほんとおすすめです。 先日注文した本も、たぶん明日には届くでしょう。愉しみだ。特に、卒論書いてた頃から探していた、野田秀樹『ミーハー』を入手できたのが嬉しすぎる。文庫本だが構わん。 そしていい加減本棚を買おう。 しかしちょっと整理整頓したら、床の本が意外と片付いたという罠。 そしてニトリのカラーボックスがコーナンのカラーボックスより高いという罠。 2010.11.05(fri)21:34 「Amazon」で書籍を注文した後に、「ブックオフオンライン」で更に安価なものを発見し、注文後五分でキャンセルしてきました。ごめんねAmazon。でも前に鏡で裏切られたし(8月の日記参照) ごまめです。 ××参照、って、いかにも「通」って感じがします。 それはそうと、ブックオフオンラインで、さっきはじめてクレジットカードで買い物しました。どきどきです。ああ、代引き手数料がかからないしあわせ。おかげで、Amazonで注文したときより安い値段で、一冊多めに本を注文できました。 今日は一日家でごろごろ、太宰読んだりディシディアでクジャ育てたりしてました。 クジャが、育つにつれて意外な強さを発揮し始めたので、がんばって扱いに慣れているところです。それにしてもクセがあるぜ。続編デュオシムではどうなるんでしょう。クジャ、コスモス‐カオスの中間ポジションなのだとしたら、プレイヤーにもそこそこ使いやすく調整されるんでしょうか。そして彼の三番目の衣裳ってなんぞ。本編中では、通常時・トランス時・負傷時しかないんですけど。そしてジタンの三番目がプルート隊……て……。いや、構わんのですけど。ジタンの金髪に鎧って、似合ってたし。 個人的にはエンディング時の黒衣とか着てほしい。で、EXバースト時に脱ぎ捨ててドカーン(技名は…『Behind the Door』とか?)、みたいな演出があったら、私のテンションがえらいことになります。戦闘フィールドに、プリマビスタ?もあるらしいし。 夕方になって、実家から荷物が届きました。中身は、食糧と洋服。実家においてきた冬物衣料と、母の友人の娘さんのお下がりです。なんでも、出産後着られなくなった洋服を、ごっそりくださったそうです。あなうれし。じつは上京する前にも、夏物衣類をくださりまして、今回が二度目です。おかげさまで、独り暮らし始めてから、ほんとうにわずかな服しか買っていません。中古だろうと型が古かろうと来ます。というかむしろ、最近のレイヤードなファッションが死にたくなるほど似合わないと思っているので、型が古いくらいでちょうどいいです。 米も、見計らったかのように母が荷物に詰めてくれます。おかげさまで、米は一度も勝ったことがありません。今度の米は、父の田舎から家に送られてきたものを、さらに私におすそわけしてくれたそうです。その前の週は、ばあちゃんが梨と林檎の詰め合わせを送ってきてくれて、近々、伯父がなにやら送ってくれようとしているらしいです。 いやはや……。 私、もう大阪帰られへんのとちがうか。 2010.11.03(wed)22:17 それにしても、なんてすばらしい、『高校生新聞』 そしていままで知らなかった自分。呪い殺してやろうか自分。 「MAMMO.TV(http://www.mammo.tv/)」というサイトによく足を運びます。 今週のインタビュー(#277)は、漫画家・こうの史代さん。 (どんな方かは、本文と、「この世界の片隅に」「長い道」(+「夕凪の町 桜の国」)参照。) なんてことだ。 ネット世界をいまさら活用している気分です。 今ならひきこもれる。 最近になって、「こんなことなら学生のうちにひきこもっとくんだった」と後悔しきりです。こんなところに学生の方が来られているか知りませんが、いまもし学生ならば、働く前に、いっぺん引きこもっておくことをお勧めします(高橋源一郎という、日本のブンガクを考えているオトナもそう言ってます。) だって、働きだしたらひきこもれないですからね。メンタルか内科系の病気にでもならなくちゃ。 働きだしたら、どこにどう転がっても、「ひきこもり(会社を休む、辞める)」=「逃げ」になってしまうような気がする。 学生、それも大学で、「とりあえず行っとくか」スタンスで学問するくらいなら、おうちでネットサーフィンして、珠玉の人生論を読み倒したほうが、いい勉強になるんじゃないかしら。そのころ引きこもった経験が、いざオトナとなって社会なるものに飛び出さんとしたとき、「あの頃のおれは引きこもっていたが、今は外に出ようとしている、それはなぜか」とか考えるようになって、もっと誠実に、「おとな」や「社会人」になろうとすると思うのです。 でもとりあえず、大学生やれてよかった、と、後付けでもなく、いまさらでもなく、思います。 四年は長いです。わたしは演劇なるものに三年を費やし、半年シューカツし、半年卒論という、いかにも「アチャー」な四年間でしたが、それでも、この四年、食う寝る稼ぐを考えずに過ごせたことは、大きかったと思います。 (※とまあ、これが現代日本におけるとても一般的な『大学生』の意見であって、「本気で大学で学問をしたい人は、むしろ自分で学費を稼いでいきたい大学に行ける、そういう仕組みを作るべきだ」というようなことを、内田樹がツイートしてました。『親に学費を頼っていては、親が行かせたい大学にしか行けないことになる。』おお。) とにかく、演劇といい卒論といい学問といい、生産活動になにひとつ貢献しない事柄に全力をそそぐ最後のチャンスが、大学生だったのではないかと思うわけです。しかもバイトで小銭も稼げるので、『金をかけた非生産活動』ができる。 そしてそうしたいひとは演劇部の門をたたくべし。ハマれなければやめたらいいし、ハマればハマったで過剰な充実感が得られます。 あ、そういえば件のゼミ教授(この言い回し二回目だわ)は、電話を切る際、「村上春樹の『海辺のカフカ』読んだら電話します」と行ってくださり、私はこころで小躍りしましたが、こういう謎な人脈も、大学行かないとないんとちがうかなあ。 2010.11.03(wed)02:44 コタツ布団(マイクロファイバー)のほうがコタツ本体より高額だったことに気がつきました。 ごまめです。 このコタツはどんな気分なんだろうか。 コタツよ、すまん、そこまで気が回らなかった。 前に里帰りした際会いに行った、ゼミ教授に電話をしました。 教授「僕、今ちょうど鴨川(京都)を散歩していたところ」 私「おぉ、優雅ですねぇ」 教授「優雅? 自殺しようとしてるのに?」 大丈夫。先生、あと三十年は生きられそうです(現在62歳) こっちから電話したのに、なぜか「それじゃあ」と向こう側から切られてしまいました。まあ、特別用事もなかったんで、よいんですけども。くそう、学生時代にもっとがっつり話しこんでおきたかった。というのはこれ、過ぎ去りし日々は輝かしくみえるものだとかそういうアレでしょうか。 まあ、なんでもいいや。すごくどうでもいいですが、昔(いまも?)愛読していた「夢水清志郎シリーズ」(はやみねかおる、講談社青い鳥文庫)の主人公、常識を知らない名探偵・夢水清志郎の相性が『教授』でした。おとなりさんに「教授ーっ」と遊びに行って、不思議な事件に巻き込まれてゆく三姉妹がうらやましかったものですが、いざ自分が大学生になってみたら、「教授」より「先生」と読んでしまったりする。 うーん、全然違うものなのになあ。 「先生」は、黒板を前にしている感じですが、「教授」は、あれだ、喫茶店だ。 おお、いまNHKのニュースで地元が出てた。場所がわかるぜうぉー。 円高が大変のようです。大変だね。そういや教授も、「もうすぐ円高がえらいことになる」と言ってました。われわれ昭和後期〜平成前半のような若輩は、生まれたころから政治経済が「えらいこと」だったので、なにがどう「えらいこと」なのか、円高もリーマンも、「えらいこと」でひとまとめです。 そういえば先日、ついにNHKの集金さんと顔合わせしてしまいました。今までうまいこと会わなかったのですが、インターホンに出てしまったのでもう逃げ場はない。って別に逃げてたつもりはないのですが。引き落としの手続きするのに、通帳の暗証番号入れろといわれてものすごく不安だったのですが、ああいうものみたいです。一分もかからずに手続き終了しました。 あれやな、必死やな。NHK。手続きの簡略化といい、私のような地方出の独り暮らし世帯の家への訪問といい。 「いきもの地球紀行」のクオリティーを維持するためには、お金もかかることでしょう。基本的にテレビをつけるとNHKなので、お財布は泣いてますが、受信料はいやじゃありません。引き落とし手続き関連でgoogle検索したら、検索候補に「受信料 拒否」などがあってびっくりしました。 googleで分かるの、それ? 2010.11.02(tue)21:20 2010年 1月 2月 3月 4月 5月 6-7月 8月 9月 10月 11月 |