カルマの坂-10


 月の無い静かな夜だった。日は既に沈んだというのに、町の家々に灯る明かりは数少ない。電気照明を引いている家が少ないのはもちろん、ランプの油を買うことのできる家さえわずかだからだ。この町には家を持つものすら少ない。そのためこの街では、夜にもなれば世界はまるっきり死んでしまうのだった。
 ただし、一つだけ例外があった。町のほぼ中心部、聳え立つような豪邸だけには、煌々と灯りが灯っている。ここはこの町の全土を買い占める、地主の家だ。
 今、家の主である地主は、太った腹を揺らしながら、教室一つ分ほどもあろうかという風呂桶に入り、暖かい湯に浸かり、籐のカゴいっぱいに積まれた果物を食べているところだった。いくら地主がふとっちょで大喰らいだとはいえ、この山盛り全てを食べきれるわけではない。日を越したものは皆、ゴミ箱行きだ。町の住人達の生活からは考えられないことである。
 だが、そんなことは知ったことではない。自分の政治のやりかたに、ついてこられないものが悪いのだ。この町で暮らすのだから、自分のやり方にしたがってもらわねばこまるのだ。
 今日、地主は機嫌が良かった。いつもなら些細な不手際を怒鳴り散らして適度に遊び、テレビのくだらない三流バラエティー番組などを見て暇を潰すところだった。だが、今日は一味も二味も違った。
 なんてったって、最高の「おもちゃ」ができたのだから。
 市場で見つけたあの少女。まるで天使のような微笑み、聖母のような美しさ。思い出しただけでも、隠しきれない笑みが口元から零れる。あの姿は自分のためにあるものなのだ、と思う。他の誰のものでもない。
 がふがふと果物を喰らい、口の周りに付着した果汁を拭わせ、地主は「にやり」といかにも悪役を主張するような笑みを浮かべた。

 一方、彼が一人不潔な妄想にふけりにやけていた、その頃。
 地主の豪邸宅・正門の前では、ちょっとした事件が発生していたのだが。
 ――もちろん、彼がそんなことを知る由もない。

 静かな夜だった。ちょうど月も出ていない。不法侵入にはうってつけの日だ。
 日が暮れてから、俺とラッシュは地主の家へと向かった。ゴミ箱の陰から、正面玄関の様子を伺う。裏口から入ろうといったのに、ラッシュは全く聞かないのだ。俺達はここに捕まりに着たんじゃないんだぞ、わかっているのだろうか、この男。
 何事もなく、時間が過ぎていく。門番が動く気配はない。こうしてじっとしていると、なんだかパン屋の前で、夕飯収穫をたくらんでるときみたいだ。緊張感なんてまるでない。そんなんだから、これから自分達ががやろうとしているのは――人殺し――だなんて、思えなくなる。
 俺は耐え切れずに口を開いた。ラッシュは相変わらず、何も考えていなさそうなぼんやりした顔をしている。
「……なあ」
「なんだい少年。まだ名前教えてくれないのかい?」
 俺は無視する。
「俺達が今からやろうとしているのは、」
 言いかけて、ラッシュにさえぎられた。
「少女救出大作戦。他のことは君には関係の無い話だよ」
 今度は俺がさえぎる。
「つまりそれは、俺じゃないヤツには関係のある話しかも知れないんだよな」
 ラッシュはニコニコしたまま黙る。
「なあ」
「なんだい」
「お前何者だ」
「正義の味方」
「ざけんな」
「じゃあ、王国直属の騎士」
「ざ……」
 え?
「この町の治世があーんまり悪いから、ちょっとお前正して来いって言われてさ。あ、ぼくこれでも一応忠実な騎士だから、小手調べに町に潜り込んでやろうとおもって、変装して、顔に泥塗って、物乞いのフリして道端で寝てたんだ。したら、この町一体の土地を買い占めた地主のなんとやらが偉く傍若無人な振る舞いをしていらっしゃる」
 この男、何のは話をしている?
「だけど、慣れないことをするのは難しいね。食べるものがなくなって、行き倒れるハメになってしまった。そこを運良く心優しい少年に助けられたぼくは、彼と一緒にとらわれの姫を助けるたびに出るのでした。おしまい」
「……はあ?」
「地主の屋敷に侵入したら、まず、廊下の突き当たり右にある階段で二階に上がって、そのまた奥にある、ムダにお金が使ってそうな装飾がたくさんしてあるおおきなドアを探すんだ。少女はきっと、そこに閉じ込められている」
 一人で行けといっているような口ぶりだった。「おまえはどうするんだ」
「僕はちょっと、野暮用があってね」
 剣を持っての『野暮用』とは、さぞかし物騒な話だと思った。
 ラッシュが突然、立ち上がった。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ」
「え」
 ラッシュは鞘におさまった剣を持ってヒラリと門番の前に飛び出した。門の前には、銃を構えた門番が二人いるのだ。俺達がいるのはそいつらから真正面、飛び出せば丸見えだ。即座に撃たれておだぶつなのだ。
 それをわかってんのかあの馬鹿は!
「ラッシュ!」
「呼んだかい?」
 ……は?
「いやあ〜やっぱ、ながらく剣を握ってないのはだめだねえ、腕が鈍っちゃって」
 ラッシュは肩をこきこき鳴らした。十秒も立たってない。ラッシュはけろっとした顔をして、軽〜い運動をしてきたかのような、さわやかな笑顔をしている。呆然としてしまう俺。ラッシュは屋敷の入り口を指差す。
 門番が二人、仰向けになって銃を投げ出した格好で、ぶっ倒れていた。血は流れていない、ラッシュの剣は鞘に納まったままなのだ。
 事情が良く飲み込めない俺は、まじまじとラッシュと門番をを見比べてみる。目もこすってみる。ついでに頭も振ってみる。
「……おまえ、やっぱ何モノだ?」
「だから、正義の味方」
「……」
「さ、今のうちだよ。早く入ろう」
 俺は、コイツを敵に回さなくてよかったと、心底思った。



/ TOP /