それにしても、だいじょうぶか、昨日の私。 2011.06.27(mon)23:25 こんばんは、ごまめです。 ちょっと興味深かったので、職場にやってきた新人の女の子Sさんと、ベテランのKさん(どちらも協力会社の社員さん)と一緒に休憩したときの話をします。 「お金」の話なので、好き嫌いがあるかもしれません。(最近こういうの、増えたなあ…) たぶん、いろいろ整理をするために書き連ねてみたんだと思います。我ながらちょっと息苦しいので、反転させておこうかなあとか思ったんですが、なにをやっても重苦しさには変わりないのでやめときます。 * Kさん宅には高校3年生と中学3年生の娘がおるそうで、「ダブル受験でほんとうにしんどい。姉は4年制大学でなく短大か専門に行って、妹は公立高校になんとしてもいってほしい」とつぶやいています。私の家もKさん宅と同じ家族構成(父、母、娘2人、娘は年齢差も同じ)なので、うんうん頷きます。我が家では、姉の私が私立4年制に進学してしまったがゆえに、妹に「短大にしとけ」というわけにもいかず、姉妹そろって私立の4年制に通うことになりました。余談ですが、うちは両親ともに大卒ではなく、いとこ(18人。妹が18番目)にも最終学歴が4年制大学の人がいません(短大はいます)ので、姉妹そろっての進学は、一族的にはかなり特殊な事態でした。高校入試のときは、親から真顔で「なんとしても公立に行ってくれ」と言われました(公立でしたが専門色のつよい学校だったし、家から遠かったので、結果的に私学くらいお金がかかったと後になって母から言われましたが) Sさんは一人っ子。高校から私立に通い、4年制大学を卒業しています。Kさんと私の話を聞いて「わたしはそういうこと、言われたことがありません」とつぶやきます。 なんか、すごいな。兄弟が一人いるかいないかで、人生変わっちゃうかもしれないんだ。 そういうのが良いか悪いかは、なんだっていいんです。人生が少々変わったところで、大抵「誤差」の範囲だろうから。ただ「兄妹のいない場合の人生」を想像すると、私は母から私にかかるお金についてブツブツ言われることも減っていたし、母はパートに出なくてもすんだかもしれない、トイレも早めに水洗になってたしシャワーもついていたかも(高校までなかったんだよなあ)と考えると、兄弟のあるなし、お金のあるなし(心理的にね)は、親や子供の人格形成にそうとう影響を与えているかもしれない。いままで「あの子は一人っ子だからねえ」みたいなことばを、「なんだそれ、つまんね」と思っていましたが、案外、話くらい聞いてみる価値はあるかもしれない。 「お金の話」を続けます。 Sさんは現在、学生時代の「借金(学費じゃなく、遊ぶことで使ったお金)」を月に数万ずつ返済しているそうです。Kさんのお宅も、高校生の姉は既に親に20万円もの借金を抱えているそうです。20万! ブランドにハマったわけではなく、こちらもお友達と遊んだお金だそうです。 我が家では、上述のとおり、母がお金については口うるさい性質だったので、当然「親に借金」なんて事態はありえませんでした。もっとも、「母親がお金についての小言をしない家庭」が日本にどれだけあるのか知らないので、うちの母は平均なのか否かはちょっとわかりません。とにもかくにも、「親に借金」は、私も妹も考えたことはありません。いや、考えたことはありますが、提言したことはありません。…提言したことくらいはあるかもしれないけれど、とにかく、実現はしていません。(私の「親への借金」は、大学の学費と、私の20数年間もの育成にかかったお金ですが、幸いなことに、どちらもいまのところ返済は求められていません。) Kさんは、専門学校卒業後は20年間IT業界で働いてきました。Sさんのご両親も企業戦士(金融、だったかな)。うちの父は中学卒業後魚屋に集団就職、その後ちいさな町工場を営む兄弟のところで働き、経営者だった兄が亡くなったため、現在は自営業として経営しています。 うすらぼんやりと考えたことがありました。母の小言が多いのも、父が「企業」というものに属していないことと、何かしらかかわりがあるのではないか、と。親が「正社員」(もっと言うなら「公務員」)の家庭と、うちは、何かがちがうのではないか。私の家は幸いなことに、保険もちゃんともっていたし、給食費もはらっていたし、税金も納めていました。けれど、多分、新聞やニュースなんかで騒がれた「無保険」や「給食費滞納」の裏にあるのって、このような「些細な誤差」の積み重ねなんじゃないか。たとえば、「正社員」か「自営業」か「フリーター」か「派遣」か、というような。 なんか、すごい。 ちょっと働き方がちがうだけで、こんなにもいろんな扱いや、考え方が変わるのか。 「些細な誤差」によっては、私も保険料金が払えなかったろうし、ひょっとしたら「高卒フリーター」にもなりえた。私が卒業した高校は自称「進学校」で、卒業生のほとんどは大学・専門に通いました。私は、高3の春と夏に予備校は通ったもののこれといって受験勉強はせず、かといって就職活動もしておらず、でも内申だけはそこそこよかったので、指定校推薦であえて希望が少なそうな学部=社会学を選択し、大学に進学できました(夢もなければ理想もなかった、ぶっちゃけ何も考えていませんでした。) このまえ、職場のMさんと、NHKで放送中のドラマ「下流の宴」について話していたときでした(私が大絶賛して職場の皆さんにオススメしたのでした。)このドラマは、いわゆる「中流家庭」が舞台です。中流家庭に育った男の子(20)は、高校中退後フリーターになりました。彼が、同棲中のフリーターの女の子(22)と結婚すると言いだすところから物語が始まります。 Mさん「ドラマ、面白いね。でもさ、フリーターって、ないよねー」 私の身の回りには、フリーターの友人や後輩が割といます。なので、気軽に「フリーターって、ないよねー」と語るMさんには、身の回りにフリーターの友人がいないか、あるいは付き合いが疎遠になっているのだと思います。ちなみに、うちの母も同じ文脈で「正社員でない人々」について語ります。私は母ほどかたくなに「正社員以外」の働き方を拒めないし、Mさんほど気軽に「ないよねー」と言うことはできません。「ないよねー」と言われる側に自分がいたかもしれないのだから、絶対に言いたくありませんし、そのように言える土台が、私のような世代にはないのかもしれません。 かといって、今から自分が「正社員以外」になることを考えると、それはそれで、いろんなことに絶望するのだと思います。 だって、賞与もなければ保険もないんだもんね。夏の暑い日に堂々とクーラー入れられるのも定期的な収入があるからだし、一人暮らしにしたってそうだ。貯金の額も減るだろう(試算したんですがどう頑張って節約しても今の半分以下になりました) 困る。それは、とても、困る。 こういうことを考えていると、きっと、私みたいな人間が社会主義を考え出したんじゃないかって気分になってきます。 * 夢をかなえるためなら貧乏してでもフリーター」や「どんなに薄給だろうと好きなことならがんばる」というのも、なんかちがう。お金がなくてもしあわせになれるけれど、あるに越したことはない。実現困難な「夢」だとか、仕事の「やりがい」よりは、「お金」を使って買い物したり遊びに行ったりする方がしあわせになれたりする。お金を稼ぐ手段が「正社員」である必要はないけれど、ぶっちゃけ「正社員」には魔力がある。それだけで賞与ももらえるし保険もある。それだけで「やりがい」になる場合だってある。だいたい「やりがい」は職種に見出すものではなくて、働き始めてからなにかしら獲得するものだとも思うから。 私はいま、ものすごく、困っています。生きるためには「働かなくちゃいけない」けど、なんか「楽しくない」。楽しくないのは「働くこと」なのか「仕事」なのかもはや「生きること」なのかはちょっと判然としない。どっちにせよ、「楽しくない」のはこちらの考え方ひとつだし、多分これは一過性のもので、来年の今ごろにはケロッとしており、ボーナスに胸躍らせていることだろうと思っているんだけど、確かにそうは思うけれど、どうしょうもない。 ほんと、どうしたもんかなあ、これは。 未来の私、これを読んでどうぞ笑ってくれ。 ごまめでした。 2011.06.25(sun)21:00 大発見。 FF9のEDにビビ(こどもじゃないよ)が映ってる! 衝撃の映像はこちら。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ごめんなさいでした。 2011.06.25(sat)22:50 どうも、ごまめです。 はやいもので、もうすぐ、「NOSTALGIA」も二周年です。 速いもんですね。 いつもご来訪くださる皆さま、そこのあなた、ありがとうございます。 ほんとにありがとう。 日記だけじゃなくて、他の内容も更新していけたらいいのですけれどね。がんばります。 2011.06.23(thu)01:02 村上春樹さんの「遠い太鼓」を読んでいます。80年代終末に旅行したヨーロッパ地方のことを書いた紀行文なのですが、ちょうどこの時期、『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を執筆されています。 そこで衝撃の一文。 「この小説は初めから終わりまでだいたいすんなりと気持ち良く書けたと思う。(中略)自分の書きたいようにのびのびと好きに書いた。」(「遠い太鼓」P.335) な、なんだってー?!(※5月の日記参照) 電車の中でものすごくはずかしい思いをしましたが、きっと誰にも気づかれなかったと思います。 ごまめでした。 2011.06.23(thu)01:02 こんばんは。ごまめです。 最近ニュースで、「このご時世、自分の頭で考えていかなきゃいけませんよね」という言葉を、わりと耳にします。 ニュースで流れるということは、この意見は幅広い人々に支持されつつある思想だということだと思います。たぶん。 そうでなければ、テレビは報道することはないでしょう。 メディアリテラシー、報道に対しての接し方や報道の在り方が問われて久しい昨今ですが、声高に「だからマスゴミは!」ということばを使う人は、テレビや新聞は真実を報道すべきだと思っているのでしょうか。「絶対に真実は報道されないし、報道しえない」という大前提を意識している人が「マスゴミ」なんて言うのかな。まあ、それはどうだっていいんです。 この「自分の頭で考える」ということは、とても大切です。だと、思います。でも、ちょっと最近、心配になっています。私は「自分の頭」には自信がないほうです。だから基本的に「引用」で喋ります。「そういえば、うちの妹は○○って言ってました」って具合。あるいは、「そういえば学者の○○さんは××って発言してました」って具合。 加えてどうでもいいですけど、こういう喋り方ってクセにならない方がいいですね。友達増やしたいときは。 さて、大学で、卒論を書くときまっさきに教わったこと、そして繰り返し言われ続けたことは、 1.とりあえず引用しろ 2.おまえの意見は聞いてない ということでした。(ちょっと暴論ですけど、要約すると、こうなります。)(…でも暴論。) 学術論文を書くということもありますが、「私は○○ってことが言いたいんです!」という観点から出発する論文ほど、下らないものはないからだと思います。特に、私は社会学というよくわからない学問を専攻していたので、このような問いのたて方をすると、本当になんでもありのことが書けるようになります。「小中学生の学力低下」を「女性の社会進出」と結びつけることもできます。『両親が共働きの家庭では子どもは学校が終わった後学習塾へ通いコンビニ弁当を食べる生活を続けることになり、言わずもがな家族間のコミュニケーションは行われない状態が続く。子どもはストレスが溜まりうんたらかんたら』 …稚拙なたとえで恐縮ですが、この人は「私は『学力低下』を『家族のコミュニケーション不足』と解きます。その心は!」と言っています。そしてこれは、とても「マスコミが好きそうな言説」です。つまり、「納得できるなあ、これ」と、たくさんの人が思えるお話だということです。 「自分の意見」から出発する限り、おそらく、この「マスコミが好きそうな言説」からは、抜け出せない。なので、とにかく、文献を読んで引用しなさい。学術論文の八割引用でできています。そういう風なことを繰り返し聴きました。(…まあ、結局すなおに引用しはじめたのは、4回生の冬だったんですけど。) 引用の仕方ひとつで、伝わり方は異なります。どの人の論を採用し、どのように組み立てるか。それが、論文を書く方法でした。誰かに何かを論じるためには他人の意見を組み立て直さねばならない。ほんの少しだけ触れた学術論文の世界ですが、同じ形の煉瓦を使って、いかに異なる家を作るか、というようなことだったのだと思います。 ついでに言うと、近代文学も引用です。映画だって引用です。それは「パクリ」とは言いません。過去の偉大な人々も、自分と同じ地平に立っていた。同じ風景を観ていた。そこから見える風景を自分も追体験すること。これは、「いまここの自分」を絶対視しないための方法ではないかと思うのです。「過去のたくさんの人たちが、自分と同じように考えていた。これは誰もが通った道であり、私はそこを歩き直している。」 「自分の頭で考える」に話を戻します。 テレビに出てきた方々が、何をもって「自分の頭で考える」とおっしゃっていたのかは、定かではありません。でも、午後九時のニュース番組で「自分の頭で考える大切さ」なんかを説かれてしまうと、なんか不安になってきます。「自分の頭」でまことに考えられた意見ほど、ロクなものはないと思うのです。 「自分の頭」を信じた昔の偉い人たちが、戦争とか迫害とかしたんじゃないのかな。 いつの時代の、どういう意見も、「自分の頭」から出てきたものは、その時代風の意見になります。午後九時代の人たちが、今、「自分の頭で考える」必要を訴える理由は、「緊急時に生き残るための最良の選択をし損なわない」ためのはずです。そのためには、自分の頭より信用すべきなのは、他者の意見かもしれない、と思うのです。 でも、難しいことに、こういうときに信用したい「政治家」や「専門家」が、いまいち信用できない。だから、「自分の頭」で考えるという意見が出てくるのだと思います。 とはいえ、誰の意見を採用するか、どの情報を信じるか、その選択は確かに「自分の頭」にゆだねるしかないのですけれど。その選択の仕方も多分、当世風なものであるという意識は、あったほうがいいんじゃないか。(たとえば、「正社員」がいいか「フリーター」がいいか、というような。「フリーター」を、自由だ!気楽でいい!って理由で選ぶ人は最近減ってきたけれど、一昔前は優勢だった。同じものを『選択』するにしても、仕方は違うという話。) なんか、難しいですね、ほんと。 こういうこと考えてるから頭痛が引かないんでしょうか。 頭痛はどうでもよかったです。ごまめでした。 2011.06.17(fri)10:02 作成経過。 ハトメを付けて胸元のリボンを通し、ベルトを作って腕をくっつけたら完成です。 2011.06.11(sat)20:04 ビビ人形を作っています。ごまめです。 ニコニコ動画で作っている方がおられまして(こちらの方です)参考にしつつ、作っています。 地味に材料費がかさみました。総額1000円くらい。ハトメと綿が高いのなんの。でも実際使った素材をかんがみると多分500円位かな? やり始めると大変楽しくなってきました。出来栄えは…ところどころ残念なかんじに仕上がっていますが…まあ、型紙から自己流でやったと思えば、上出来です。(結局、参考にした動画さんとは、かなり違う手法で作っています。) だが次やるときはもっとうまくやるんだぜ。 できあがったら写真を載せたいな。 2011.06.08(wed)22:12 「みんながお腹をすかせている時は、自分も一緒におなかをすかせていたほうが、共同体の安寧が保たれる」 でもそういう場所って、共倒れの可能性があるんだなあ。 2011.06.04(sat)10:02 ちょっと思い出したので、「買占め」の話をしようと思います。 と、いっても、NHKが始終報道していたような、「買占めいけない、やめましょう」というようなお話をするつもりはありません(結果的にそうなるのかもしれませんが)。もっとも、そういう言葉ももうすっかり聴かなくなったので、こういう話を思い出してみようと思った次第です。 なので、「もう、うんざり」って人は、避けて通ってくださいね。 「なぜ買占めはいけないのか。」 こういうような設問の仕方では、議論のさきが見えています。どうあがこうと、「買占めはいけない」ものであるという結論はゆらぎません。そこに行きつく道筋が、ほんのすこし異なるだけです。 本当に、「買占めはいけない」ことなのかどうかは、議論されません。議論するまでもないことだからです。 でも実際のところ、モノが少なくなったり、明日のわが身が危険にさらされるような状況において、他人より少しでも多くの「生きる糧」を手に入れたい、貯蓄しておきたいと思うのは、とても一般的なものです。地震のあった翌日、駅前のSEIYUに赴くと(理由は言わずもがな、カップラーメンでも買っておこうかと思ったのです。保存のきく、手軽に食べられる、食料品を)入口では入場規制が行われていました。 そういうものです。なにせ非常時なのです。「買占め」という、あまりにも悪者のイメージが強い言葉でくくられてしまうと、少しでもそういうような行動をとった自分が恥ずかしくなってしまいます。じっさいに、「買占め」というような言葉で表現してしかるべき、ものすごい買い方をした人は、ごくごく僅かだったのだと思います。スーパーの棚がカラッポなことには驚きましたが、あれは、誰もかれもが「買占め」を行ったあとではなくて、たくさんの人が「普段の分より心持ち多めに」商品を購入した結果、だったのかもしれないと思うのです。 まあ、とにかく、そういう意味での「買占め」は、悪じゃないだろう。つまり「なぜ買占めはいけないのか」という問いこそが、不適切だとおもったわけです。 しかし、「買占めは、しないほうがいい。」と、思います。 被災地に物資が届かなくなるから、幼子にペットボトルの水がいきわたらないから、そういう理由は、どうもしっくりきません。「他人なんか、しったこっちゃない!」皆が切羽詰まってそう思う、そういう事態がありえたかもしれない。たまたま、思いのほかはやくスーパーの食料品棚は埋まり始め、ゲンパツは落ち着きを取り戻しつつあるように見えてきた(見えてるだけかもしれないけど)から、「買占め」への必然性もなくなった。日本人がやさしくて礼儀正しいだなんて、私たちが思っていて一番言ってほしいことを、テレビが勝手に言ってるだけなのだし。 非常時の「買占め」については、多分、倫理的な話ではないほうがいいのでしょう。だいたい、平時において「買占め」が発生することって、そうそうない。誰かと競争したり、モノが少なかったりするときに、「買占め」が起こるものではないか? そういうときに人の道や倫理を持ち出すのは、ちょっと違う気がする。「それは納得ができない。」 それでもなお「買占めは、しないほうがいい」のは、「おおきな財を持つことは危険」だからだと、思います。 無人島に漂着した。そこでは少ないご飯しか手に入らない。ご飯を独り占めにしようとする人間は当然ながらみんなから嫌われます。小さな輪のなかで嫌われ者になった人間には、貴重な情報――たとえば、近くにワニがいるから逃げようだとか、あっちに果物の樹があるだとか――が与えられない可能性がある。 少ないモノしかない場所で、限られた共同体の輪のなかで暮らす時、それらの財は分け合わねばならない。ハリウッド映画でも、真っ先に死ぬのは「共同体の輪からはぐれたもの」です。はぐれものは恐竜に食べられてしまう。だから、ひとりきりになってはいけない。そのためには、「買占めはしない方がいい。」 ちょっとこれは、あの三月の時点でのトーキョー初め関東圏の都市部に当てはまらないたとえ話かもしれない。けれど、こういうことを考えたのは、トーキョーという都市では、少ない財を取り合うような事態にも、なるのではないかと、そういう気がしたからなのでした。 2011.06.02(wed)23:29 2011年 1月 2-3月 4-5月 6月 2010年 1月 2月 3月 4月 5月 6-7月 8月 9月 10月 11月 12月 |