イーストウッド祭一日目。『ダーティハリー』

キャラハン刑事が最高にかっこいい。精神異常の殺人鬼のキチガイっぷりも、とてもいい。ヨゴレ仕事ばかりをまかされるキャラハン刑事の人物像とは「加害者の人権ばかりを擁護する法律に真っ向から反抗し、自分のなかの正義にのっとり、犯人を追いつめる」。映画が製作されたのは70年代ですが、なんだかいかにも、現代チックなテーマ性ですね。しかし、そんなんどうでもよくて、とにかく面白かったのです。
キャラハン刑事は、ヤリ手なことをのぞいたら、正義感的には『踊る大捜査線』の青島くんといい勝負かもしれません。いや、青島君と決定的に違うのは、このハリー、心情吐露がほとんどない。目で語る。そして伝わる。見せ場のシーンで余計な音楽も流れない。迷わず銃を向けるそして撃つ。犯人側も基本的に同じ。葛藤はするけどあらわにしない。あらわにしてもやりすぎない。そこがいい。それがいい。そして続編は観ないときめた。これは一作でじゅうぶんな映画だ。

余談ですが、ハリーの相方チコもイカス。なにがイカすって、「頼りなさげな新人の相方」を押しつけられたときの会話。

ハリー「スポーツは」
チコ「ボクシングです」
ハリー「学部は」
チコ「社会学
ハリー「なるほど。出世できそうだ」

噴いた。うさんくさい学問扱いか……だがじっさいその通りなのでなんともいえない。そしてチコのなにがいいって、犯人との対決で入院する彼のもとに、可愛い彼女がお見舞いに来てくれてるところ。映画における、こういうポジションの人物って、とても好きです。

2011.01.31(mon)22:12

そんなわけで、金曜日、仕事帰りに鼻息も荒く、近所のTSUTAYAに出向いたのでした。ごまめです。

Tカードを忘れたことに気づいて家に取りにかえったら、帰ってひとしきり捜索した後に財布の中で発見し、その後DVDを借りる手続きしている途中に、土曜・日曜に旧作全品100円セールをやるという張り紙に気がついて、重ねてげんなりしたのでした。それでも5本1000円で借りてきたので、まあ、いいです。
今日は500円分の傷心を持ってして、映画鑑賞をしていました。

・ブレードランナー
・ラストタンゴ・イン・パリ

上記二作品は、まえから観たかったもので、今日続けて観ました。『ラストタンゴ・イン・パリ』の意味不明具合に、一緒に観ていた相方が「これは中二病とちゃうんか」と怒ってました。いや、中二病とはちょっとちがうんとちゃうか。私はマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』を思い出してました。
若い娘との性交にふけり、彼女にたいしてそれ以上の意義をみいださない(今で言うセフレ)中年男、そいつがいきなり、過去だのさみしさだのをにじませはじめて、「おお、なんか、感動的な話になるんとちゃうん?」という予感がしてきたにもかかわらず、女の子のほうが嫌気がさして、最後はなんだか滑稽な追いかけごっこで終わってしまう。とても滑稽だったなあ。

・チェンジリング
・ダーティハリー
・ミリオンダラーベイビー

以上、明日からのクリント・イーストウッド祭に向けての三作品。おもしろかったら『荒野の用心棒』とかも借りてこよう。来週はスティーブン・スピルバーグ祭をする予定です。

2011.01.30(sun)22:12

ひさしぶりに水彩絵具を取り出して、手元にあったスケッチブックに、そのへんの文房具屋さんで買ってきた筆とえんぴつと消しゴムで、がしがし絵をかいています。教本は、『蟲師』シリーズ表紙と、植田正治の写真集。ごまめです。水彩って、難しいですね。色のぐあいが、どうもペターンとしてしまって、残念なぐあいです。というか、筆もえんぴつも、思い立ったその日の夕方に、業務用の文房具屋さんで急きょ購入したものなので、絵心もへったくれもないうえに、なんというか、「ぬりえ」って感じです。残念です。
そういや先週、ひっさしぶりに、大学のゼミの教授に電話をしました。なんかしょっちゅう電話したり会いに行ったりしてますが、なにをかくそう、教授ラバーなのですよ。とにかくおもろいんです。

教授「こんどから、京都の大学で、非常勤講師として映画論を教えるんです」
私「へーいいなー、おもしろそうですねー」
教授「面白くなんかないわ。アホの大学生ばっかりやで?!」

……いや、そっちとちがいますから。
スティーブン・スピルバーグとクリント・イーストウッドの映画を観てみなさいと言われたので、こんどTSUTAYAにいってこようとおもいます。

おもろい会話といえば、今週火曜日、新人研修でお世話になった人事の男性と、おなじく人事の本好きの女性と、三人で、読書会をひらきました。といっても、仕事帰りに串カツたべながら、本の話をひたすらしてきただけですが。えらくもりあって、村上春樹の解釈やら、なんで村上龍の小説はあんなにグロいのかなどをひとしきり話しました。なかなか有意義な時間でした。めったにない機会ですから。
でも基本的に、本好きというのは面倒くさい種族であるとおもいます。自分の仕入れた知識は語りたくなっちゃうし、自分が読んだ本をいちばん「深く」理解しているとおもいたくなっちゃう。おうおうにして、本好きの話というのは、一方通行になりがちで、しかも全然「深く」なんてない、そんな事態に陥ってしまうとおもいます。
気をつけねば。一方通行のことばほど、残念なものはありませんから。

2011.01.27(thu)23:18

せっかく本社でるんるんだったのに、なんか二月から遠いとこに出向くことになったようです。

ごまめです。

うふーん。断固拒否。

したいんだぜ。断固拒否。

ところで、最近一年半ぶりに「ニコニコ動画」に入り浸っています。原因は「忍たま」のせいですが。異常な盛り上がりっぷりに、まんまとほだされているようです。こういうことは前にもありました。そのときは「ヘタリア」でした。二週間で「なにこれおもろい」→「冷静になる」の流れを経験しました。そしてその後二カ月「この漫画がなぜ流行るのか」を考えて悶々としました。歴史ブームもそうだけど、背景を考えだしたらとまりません。
当時はシューカツまっただ中でした。ここで「YOUTUBE」でなく「ニコニコ動画」であるのは、匿名のみなさん(コメント欄)の存在ですね。「おお、皆同じことを考えているんだなあ」ということを確かめることができるのです。それってとても安心できますよね。しかもあのコメントって、個性がまったくないし。「にちゃんねる」とかでもそうなんですが、「スレ違い」のコメントに対して敏感なのは、その安心を崩したくないからなのかもなあ、と思います。それってつまらんけど。

「ニコニコ動画」みてると、だんだん自分もペンタブ買わなきゃいけない気がしてくるので不思議です。今はシューカツやってないけど、こういうときはどこかしらが弱ってるか痛んでるのだと思うので、とりあえず落書き帳ひっぱりだして、一年は組のみんなを書き散らしています。一年は組の皆さんが尋常じゃないくらい書きやすいのはなんでだろうかと考えてすぐわかった。ほっぺのラインがピカチュウと一緒! ←正反対の理由で、私はフライヤとサラマンダーをほとんど書いたことがありません。

それにしても懐かしいなあ。

2011.01.19(wed)23:18

今日は我らが姫のバースデーですね。今年でダガーも26歳です。おもえばゲーム開始当初は、ジタンのことはずいぶん大人だと思ったもんです(中学生でした)。
信じない。彼が16歳だったなんて信じない。
漆原友紀『蟲師』読んでも、ギンコが「二十代後半」だなんて信じない。忍たまの利吉さんが18歳とかさらに信じない。その他数多の漫画・ゲーム・アニメの主人公が十代・二十代とか信じない。二次限界では、こちらと時空のなりたちが違っているのではないかと思えるくらいに、だれもかれもが「大人」すぎると思います。時の流れって残酷。

ごまめです。

ところで、『蒼雲草』の雷さんが、「ラスボス戦時のパーティーについて」を日記で書いてらしたので、わたしも触発されてみることにします。

そもそも、私が「FF9」の世界に最初に触れたのは、エンディングからでした。
当時FF9にハマっていた友人宅で、エンディングを観たのがきっかけ。映像の美しさにもたまげましたが(それまでゲームといえば、ゲームボーイで「ポケモン」か、スーファミで「カービィ」だったので)それにもまして、音楽の素晴らしさ、「Melodies of Life」にも胸打たれ、「これは自分でやりたい!やらねば!」と思い立ち、翌年のお年玉で妹とお金を出し合い、ハード(当時既にPS2が発売されていたにもかかわらずプレステ)とソフトを「トイざらす」で購入したのでした。
なので、永遠の闇の突然の登場にはびっくりしませんでしたが、そのまえに出てきたデスゲイズにびっくりしました。友人宅で観たのは、トランス・クジャ戦からで、てっきり二連戦とばかりおもっていたので。デスゲイズは実質連戦ではないけれど、RPG初心者の私には「後戻り」という智恵がなかったのでした。

そんなわけで、ストーリーを追うのに必死になり(それでも初回プレイ時は何が起こっているのかわからんかったが)レベル上げはさっぱり、後半突入に従い「とんずら」使用回数は増え、当然アビリティも覚えられず、というかサポート・アビリティの使い方と効用がいまいち理解できず、アイテムは盛大にとりのがし、チョコボにハマることもなく、ラスダン突入時の最高レベルは41(ジタン)でした。最低はエーコの38。パーティメンバーはジタン・ダガー・ビビ・エーコの火力にかける魔女っ子メンバー(愛らしさだけで即決)それ以外は育てもしなかったので、スタイナーなんてレベル16位で止まっていたはずです。八角棒を取り逃し、ビビは「ガ」シリーズを覚えていませんでした。
けっこうしっかり覚えているのは、永遠の闇戦以前に、トランス・クジャに散々苦しめられたおかげです。当然、この面子ではメガフレアに耐えられるはずもありません。最終的に、全員のレベルを40代にして再突入。それでも最高レベル48で、最低は41でした。ラスダン付近のモンスターに何度か全滅させられつつ、辛くもクリスタルワールド最深部に到達し、コントローラーを投げ捨てる直前にトランス・クジャを撃破(あと一発でも何かをくらっていたら全員即死するような状態だったきがする)、永遠の闇戦に突入したのでした。

さてその永遠の闇ですが、使ってくるのはいやらしい状態異常系の技に強制HP1技、自分強化技。トランス・クジャのごり押し攻撃魔法に比べたら、なんてアマいラスボスなんだと思ったものです。運がよかったのか、状態異常に苦しめられることもなく、二度か三度の挑戦で、トランス・クジャより簡単に倒すことができました。トランス・クジャも、一度倒すことができたら、その後は倒せるようになりました。

はじめて自力でクリアしたのは友人が遊びに来る日でした、部屋の片づけをしたあと、ゲームでもして待っていようとPSをセットして闘いはじめたところ、意外と調子がいい。友人を待たせたままゲームを続け、そのため、エンディングは友人と一緒に観たのでした。ラスボスを倒せた嬉しさに私がその場で躍りはじめたことは、友人の間で長らく話のネタになりました。

私がFF9をプレイし始めたのは年明けすぐのことで、クリアしたのは三月頃でした。ちょうど、「ガーネットの家出からジタンが戻ってくるまで」に合致していたことに、後付けで気付きました。「FF9」の初回プレイか、何度目かのプレイ時にテレビの映りが悪くなり、家族でお金をだしあってテレビを買い替えたりしました。買い替えるまでの数週間、画面が縦ぶれするテレビでゲームをしたせいか近視がひどくなり、いまも眼鏡をかけているのでした。そのとき買い換えたテレビが今、地デジ移行でふたたび買い替えの時期を迎えています。あのとき遊びに来ていた友人が今どうしているのか知らず、私に「FF9」を教えてくれた友人は「ラグナロク」にハマってます。私は「FF9」と同じニオイをかぎとって、wiiもないのに「LastStory」に手を出そうかと考え中です。

以上、「FF9にまつわる思い出」でした。

2011.01.15(sat)23:18

びっくりするような出会いというのがまれにあって、であるがゆえに、読書は楽しいのです。

ごまめです。

そのうち読もう、と思って、Amazonでお気に入り登録していた、福田恒存『人間・この劇的なるもの』。地元ブックオフの単行本500円セールの日に、偶然みつけて買った、内田樹『邪悪なものの鎮め方』。出会いも、内容も、ベクトルは全然ちがうところのはずにもかかわらず、語られている内容が、驚くほど似通っているのでした。

「死もまた『特権的状態』である。出生は生まれてくるものにとって『特権的状態』になりえない。(中略)…死は、最初から、いや、それがやってくるずっとまえから、私たちはそれにたいして用意することができる。出生においてはたんなる物体にすぎず、その端役さえ務められなかった私たちも、死にさいしては、瞬間、主役になりうるのである。…」(福田)

「『死んだ私』という想像的視座に立つことなしには、『今この瞬間のリアリティ』を形成することはできないのである。『今この瞬間のリアリティ』を基礎づけるのは、『今この瞬間』を含む物語のぜんたいだからであり、『物語』の中で『今のこの瞬間』が何を意味しているのかを知るためには、どうしたって『私という物語』を読み終えていなければならない…」(内田)

ちょっと抜粋がまずいかな。まあいいか。とにもかくにも、どちらの文章でも、『物語』と『リアリティ』のかかわりについて、福田氏は直線的に、内田樹は断片のような文章で(ブログの内容まとめたものなんだから当然っちゃ当然だが)繰り返すのです。驚くべきは、『人間〜』は昭和31年に出版されたものにも関わらず、古びるどころか、今のよのなか的にとんでもなく重要な、必要なことが説かれてあるということなのです。
おもしろいなあ。

そして私はこれら二つの文章をコーヒー飲みながら読みもって、「きっとこれもなにかの縁よのう」などとのんきな物語にひたるのでした。

同じくBOOKOFFで注文した、おがきちか『エビアンワンダー』、浦沢直樹『PLUTOF・G』、どちらも三回くらい立て続けに読み返しました。特に『エビアン〜』は、高校の頃に友人に借りて以来、もっかい読みたいなあ、と思っていた作品だったので、読んでる間も読み終わってからも大変楽しかったです。
ぼかぁ幸せ者だ。

2011.01.14(fri)23:18

思いだした勢いで、昨日はついつい『忍たま』(←とりあえず利吉さん観るために)(←親が泣く)観ていて夜更かししていて全力で寝不足です。ふと思いだしたんですけど、利吉さんが登場する前は、三人組のなかでもきり丸がいっとう好きで、二番目には土井先生がかっこいいと思っていたので、やっぱり一歩間違えば「初恋は土井先生」路線をぶっちぎっていたのかもしれません。シャーロック・ホームズより大変です。

ごまめです。

「昨日書き足した日記、テンションが尋常じゃないから消そう!」と思っていたのに、なんかこれはこれでオモロイ気がしてきたので、おいときます。深夜のテンションって大変ですね。さすがに日本語おかしいとこはちょこっと手はいれましたけど。

そういえば、日曜日に電気ポットを購入しました。連日の厳寒に耐えきれませんでした。いつでもすぐに、手間をかけずにコーヒーが飲めて、幸せ至極。しかし味がかわるというのはほんとうですね。電気ポットで沸かすと「あたためた水」って感じがします。ってこれ、我が儘にすぎますでしょうか。たまにはやかんのことも思いだそうと思います。

2011.01.12(wed)20:50

いま(つうか昨日)起こったことをありのままに話すぜ(思いだしたから)


テレビを付けたら『劇場版 忍たま乱太郎』がやってたんだぜ。
観るもんないし、面白かったから、そのまま観ていたんだぜ。
そしておれは、驚愕の真実にたどり着いたんだぜ……

利吉さん、カッコよすぎとちゃうか。

火照る頬。高まる鼓動。そう、これは恋?
毒たけ忍者に変装し、囚われた「は組」の良い子を助けにいくわ、帰りに足をうたれて土井先生ともんどりうって階段ころげおちるわ、それにしてもこれ誰向けに作られた映画だ。そもそも、この利吉さんの設定ときたら、女装がダウトでケツアゴの、山田先生の息子。若くしてフリーの忍者として活躍し、茶髪でポニーテール(シュシュはない)(だまります)の「忍たま」稀にみるまっとうな美形だったりする。「そこにシビれる、アコガれるゥ」のド真ん中ではないか。そういやあ当時から、利吉さんがでてくる話はテンションあがったなあ……よくここまで変な道に走らなかったものです。初恋の相手がシャーロック・ホームズの「だめんず・うぉ〜か〜」作者・倉田真由美さんの生い立ちと、微妙に符合します。

で、「忍たま」で調べたら、グーグル先生が真っ先に教えてくれたのは、
(ここからほんとうに今知ったことなのですが)


「2011年、忍たま映画化」


(しかも実写・アニメ両方)

(↑しかも実写版監督は『ヤッターマン』でやらかした(グッジョブ)三池崇史)

(↑そして公式CMが病気)

こ……これは一体……

あれか。かつてNHKアニメワールドで『今日からマ王』(作者がBLを隠さないラノベ原作)やったり『かみちゅ!』(なんかしらんけど絵がどう見ても大きなお友達向け)やったり『もし高校野球のマネージャーが(略)』(もしドラっていうんだって。そうかあれだな、もし☆ドラか)やったりするのと同系列で、忍たまも公式的にその流れに乗せるつもりなのでしょうか。けしからんぞ。もっとやれ。
それにしても、小学生のころ、『アリスSOS』やら『コレクターユイ』やら『ナノセイバー』観ていたころが懐かしいなあ。

とりあえず、「忍たま」実写映画に三池崇史監督というのは、地上波放送が待ち遠しいというものです。どうでもいいですけどwikiったところ、わたしがテレビで観ていた映画の製作は1996年(ニッポンアニメの黄金期!)、当時の観客は八割方女性だったという。歴史は繰り返すのか……。

以上。動悸息切れの収まらぬ(更年期ですか)ごまめでした。

2011.01.12(wed)00:10

近所のちいさなケーキ屋さん。クリスマスに食べたチョコレートケーキが超絶美味(口に入れて絶句、五秒後頬がゆるむうまさ)だったのですが、先日夕暮れ時に店の前を通りがかったら、二人ほどのお客さんが、連れだって入店していくところでした。駅からも遠く、車通りも少ない、加えて(家賃が)高そうなマンションも少ない市街地真ん中。店員さんはどうみても身内だったし、開店からまだ日も浅いようでしたので、ちょっと行かなかったら知らん間につぶれているんと違うか、と思ってハラハラしていたのですが、杞憂に終わってくれそうです。
よかったよかった。
ごまめです。
件の5パーセント割引き券ですがまだ使っていません。もっていくの忘れてました。来週こそ使おう。そしてケーキを食べよう。

それはそうと、Twitterで、小説家の高橋源一郎さんが、月に何度か、の頻度で、「午前0時の小説ラジオ」というタイトルで、少し長めのツイートをされるのです。(前にも言ったようなきがするけど。)それで、昨夜のテーマは「アキューメン(acumen)」と「アンラーン(unlearn)」と「他人に届く思想」についてでした。この三つがどうつながるのか。どれも全部、「他者の話を聞く」につながることばです。
このへんから以下、まるっと受け売りですが、

「unlean」は「学びほどく」(日常生活に即したことば、おのれの礎となるような部分のことばで、誰かから教わったことを紡ぎ直すこと、と理解。しかしどうしたことか、こんな風に言ったらヘレンケラーが身体の体験で「water」を理解したような事件とは程遠くなるんだぜ)

「acumen」は「耳順(じじゅん)」。論語で六十歳を指す言葉。他人の話に耳を傾けることができる年齢、という意味合い。たかはしさんは、北アメリカの原住民の暮らしぶりを目にしたことで、彼らの智勇に目を向けることのなかった自ら(己等?)の偏狭さに気付かされた、アメリカの学者の話を挙げている。彼の死後、彼の妻はその原住民について本を書き、かれらの娘は、その原住民を『ゲド戦記』という世界に描いた。日本でアニメにもなった。

「他人に届く思想」とは、「unlearn」や「acumen」のような、オリジナルな、というかオリジナルがあるのかどうかと常に疑問と不安にさいなまれつつも語らざるを得ない、かぎりなくオリジナルを求めたことば、ではないか。

そういうようなことを、たかはしさんが言っていた。
なんかな、ああ、これは、難しいんだなあ、と思うんですよ。
私のことばは基本的に大学時代の受け売りですから。他人の話を聞くのも、なんて難しい。だって、つい反論したくなるってものではありませんか。先日の「白熱教室」じゃないけど。かといって、「うんうん、みんな正しいんだなあ」って立場はいやだ。それは、なんかちょっと違う。「みんな正しいんだなあ」という生温かい視線でなくて、「それもあるがこっちはどう?」のまなざしを持つこと、持つのはできても持ち続けることが、難しいんだなあ。
難しいからできっこない、やめちまおう、ではなくて、どうやったらそれが可能であるかを考えることもまた、難しいんだなあ。

2011.01.11(tue)22:10

「白熱教室JAPAN」なる番組を観ています。
ごまめです。
2010年に哲学書において記録的なヒットとなった、ハーバード大のサンデル教授の公演を書籍化した『これからの「正義」の話をしよう』をうけてのことでしょう。いまやってるのは、「アメリカの原爆投下に正義はあるか?」だそうです。サンデル教授も確か、書籍と日本での講演で、このテーマを扱っていた気がします。日本という、公式的に「唯一、原爆を投下された国」に住んでいる以上、一度は『考えさせられる』話題なのでしょう。私も小学生のころ、夏休みの宿題だった『平和新聞』(平和にかんすることをA4用紙にまとめる。戦争に限らなくてもいいけど、夏だし、どうしても戦争関連の話題が多くなる)で、なんどか書いたことがあります。

まあいいです、なんだって。

それはそうと、この番組にでてくる学生が、「戦争はどんな理由があれいけない」「人を殺すのは正しくない」みたいな論にもちこむのが、それちょっとどうなの?! と思わざるをえない。だって、「人間がたくさん死ぬ=二酸化炭素排出量が減る=エコ」みたいな論理だって、成り立たないとは思えない。人が死ぬから戦争がいけないのか? そんな安い理由で「平和」を語っていいのか。
人ひとりが死ぬ(殺される)ことよりも、政治家が一億円脱税することのほうが、社会的に被害が大きいことは誰が考えても分かります。それでも、政治家の脱税よりも殺人事件に怒りが沸くのは、それが「人間が殺された」からです。もしこれが「人命ははがき一枚より軽い」という道徳のある社会で起こった出来事ならば、ひとの怒りは確実に、脱税事件に向くはずです。
戦争という出来事の渦中にいる人にとったら、自分の行いこそが「正義」だったんじゃないのか。その「正義」にたいして何の疑念も持てない、持たさない社会的な制度が、ルールがあったから、アメリカは原爆を『落とすことができた』のではないのか。その制度にたいして、それが「正義」か「悪」かを問うのは、後の人間にしかできない。そしてその判断すらもまた、それが語られるフィールドの「制度」にのっとっている。だったら、結論なんかでるわけない。大事なのは結論ではなくて、その「制度」に対していかに抵抗して考えるか。「戦争はいけない」なんてくだらないことばじゃなくて、いかに自分の頭で考えるか、じゃないのか。

いかんね。おいしいご飯食べて(自画自賛。しかしブリ大根、初めて作ったらうまいんだこれが)おいしいコーヒー飲んでたら、思いがけずハイになっちまいました。自分のことは自分でできる大人になりたい、とおもいます。

2011.01.09(sun)19:07

「バスジャック事件をうけて、バス会社と警察の合同で、防犯訓練が行われました。刃物を持った男が侵入してくると、運転手はドアを開き乗客を脱出させます。その後、備え付けの消火器を噴射し、犯人を外へ追い出した後、運転手がドアを閉め、内部の安全を確保するという手筈を確認しました。」(NHKの夜のニュース)

言ってどうする。
ごまめです。
どうでもいいですが、実家のおせちのごまめ(田作り)を食べつくしたのは私です。だって誰も食べないんだもの。

「防犯訓練」ですが、ドアを開いたところで客が逃げ出さないのも困るし、こうやって「防犯手段」を広めておくことが、大事なのかもしれないなあ。であるがゆえに、犯罪はドンドコ「凶悪」化していくのでしょうかしらん。一番大事なのって、臨機応変さだとは思うものの。
まあいいや。

さて、噂の「本社待機(社内失業)」一日目ですが、やばいんだぜ、ラクすぎるぜ。二ヶ月間待機を体験していた上司は「死にたくなる」と言っていましたが、ぼんやりするのが特技の私には天国です。天国といったら言い過ぎですが、少なくとも前いた孤独な職場よりはマシです。憧れのマイデスク(前いたところは長机だったので)もあるしね。することないので、のびのびとJAVAだのVBAだのの言語を扱ったサイトをめぐって復習していました。明日からとりあえず「Java」をやろうかと思います。

正月休みがオワターと思ったら、またすぐに三連休なんですね。至福です。七草粥も食べなくちゃいけません。クリスマスにケーキを買ったお店が、一か月何度でも五パーセントオフのチケットをくれたので、こちらにも行かなきゃいけません。本末転倒です。でもいいです。街のちいさなケーキ屋さんでしたが、チョコレートケーキは稀に見る美味なケーキでした。
土曜日にまた日暮里にでも出向いて、二メートル二百円の布でも買ってこようかと思います。

2011.01.05(wed)21:22

あけましておめでとうございます。

昨年「NOSTALGIA」にご来訪くださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。
今年も亀のごとき歩みで、されど着実に更新をしていこうとおもいます。よろしくお願いいたします。

というわけで、一週間まるっと里帰りしてまいりました。トーキョーには二時間ほどまえに帰宅(?)したところです。ほんとは昨日の夕方に列車に飛び乗る手筈だったのに、駅周辺の道路の混みっぷりをみて、車で送ってくれた父と母がまず先にあきらめました。ので、予定より一日多めに、お風呂につかることができました。いやっほい。

そんなわけなのでここ一週間のまとめを…と思っていましたが、書きだしてみると案外おもしろくなかったのでやめます。あ、ひとつだけ、予告通り「ノルウェイの森」を観てきたのですが、こちらの感想はまた気が向いたときにでも。基本的に、あれだ、「内田樹のいうとおり!」でした、とだけ言っておきます。

2011.01.04(tue)14:22

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