「不謹慎」な話をします。
あえて話そうと思います。

私以外の誰かにも、「不謹慎」を共有してほしいと思っているのです。

なので、「不謹慎」は遠慮したいという人は、どうぞ避けてお通りください。そういう方でも「これは不謹慎だ」との了解のもとで読んでくださるならばそれで結構です。

***

NHKのニュースを観ていると、「引っ越しのその日に津波に巻き込まれた夫妻」が映しだされていました。
新築の家が完成した次の日、引っ越しのさなかに地震が起き、できたばかりの家も引っ越し荷物のなにもかもが、波にながされてしまったそうです。

この話を聞いたとき、私はおもわず笑っちゃいました。
もう、これは笑うしかない。新しい土地で顔見知りもおらず、移動の手立てはない上に、家財のすべてを失ったとあれば、ひとまず途方に暮れて、暮れきった後は笑っちゃうしかない。そういう「笑っちゃうきもち」というのを、「テレビの前のわれわれ」は、もつことができる。いや、もちろん、まっとうに悲しんだり、夫婦の悲しみに共感する人もいると思うんです。ただ「テレビの前のわれわれ」にも色々居て、そのうち何人かは「笑っちゃう」。どちらが正しいのかはどちらでもいい。ただ、どちらも「テレビの前のわれわれ」の反応です。

「笑っちゃう」ことができる程に、「テレビの前のわれわれ」は遠い場所におるのです。
多分、いま、途方に暮れている人たちよりも、ひとあし先に、その場所にいる。

そんなわれわれが「いま、悲しむ人」に何ができると言うのか。「いま、悲しむ人」にとっては、どんな慰めも通用しない。何を言っても届かない。生きている「現実」が違うとはそういうことなのでしょう。私はその「現実」を共有せずにすんだことを、ありがたく思います。テレビの前で「笑っちゃう」自分は仕合せだと思います。

なにかできることがあるかもしれない、なんて、思わないことです。「われわれは何もできない。」なにもできないことを覚悟のうえで、それでも何をすべきで、何がしたいのかを考えることが、必要とされています。加熱する支援の輪、繰り返される「被災地のために」の文言は、正しいこととされています。
それらは多分正しい。テレビの前で「笑っちゃう」私よりは幾分正しい。

でも、笑っちゃうのは私の正しさです。

以上、不謹慎な話でした。
2011.03.26(sat)12:33

こんにちは。ごまめです。

そろそろ、ことばのリハビリを始めます。
別にどこに不具合があったわけではないです。ただ、少しでも「伝わる」ような、伝わってもらう側を意識した読み物を目指してみたいと思います。

2011.03.24(thu)23:35

お久しぶりです。
無事です。ごまめです。

『東北関東大震災』

私はトーキョー湾付近の本社で地震に遭遇し、会社に一泊した後で、帰宅。家ではお皿の一枚も割れておらず、目立った被害もありません。地震発生直後はすぐさま机の下で頭をかかえたのですが、揺れが収まってからしばらくの間は、歯の根が合いませんでした。
「震度5強」のトーキョーでこのざまです。震源地近くの方々は、本当に恐ろしかったろうと思います。
トーキョーも、土曜日までは、ずっと余震が続いていましたが、今はずいぶん収まりました。カントーに住む知人にも被害はなかったようで、私の身の回りでは一安心です。

東北と太平洋に面する地域の都市部は、大変なことになっています。地震の揺れもさることながら、津波による犠牲がどれだけ大きいものになるのか、見せつけられました。「Google」が発表した、「地震前」と「地震後」の被災地の写真をみて、これは戦争か何かの写真じゃないのだろうか、と思いました。田んぼも家もなにもかもが根こそぎ押し倒されて、跡形もなくなっています。

ところで、私のような「中途半端」な位置に住む人間としては、わが身も心配だし、被災地のことも心配になるわけです。日本各地で地震が起きている今、いつ『首都直下型地震』が起こるかも分かりません。とりあえず、守れるわが身は守ろうと思います。
そのうえで、できることってなんなのでしょうね。
これから考えよとおもいます。

ごまめでした。

2011.03.13(sun)17:33

突然ですが、「NOSTALGIA」はしばらく更新を行いません。

こちらの都合で申し訳ありませんが、もしかしたら一カ月か二カ月先に突如復活しているかもしれないので、そのときは再び、ご愛好の程よろしくお願いします。

2011.02.20(sun)17:33

そしてこれは『ダーティハリー』観ていたころから決めていた(おおげさ)なのですが、来週か再来週は「マカロニ・ウェスタン祭」をしたいんだぜ。目録は、

黒澤明『用心棒』 セルジオ・レオーネ『荒野の用心棒』
クリント・イーストウッド『許されざる者』
ドン・シーゲル『アルカトラズからの脱出』
三池崇司『スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ』

最後が今から超楽しみ。
源平合戦に謎のガンマンが現れる話で、登場人物ほとんど日本人なのに公用語が英語で、タランティーノ監督(「イングロリアル・バスターズ」とか「キル・ビル」とか)がこっそり出演してるんだって。なんだそれ?
ちなみにあれだ、『スキヤキ』っていうのは、坂本九の名曲『上を向いてあるこう』が海外輸出されたときに、『スキヤキ・ソング』(当時は「日本食」といえばスキヤキだった)として受け入れられたためでしょうね。世界各国で、原曲とはおおきく異なる歌詞で、自由に歌われていたそうです。ところでスキヤキ、漢字で書いたら『鋤焼』なんですが、アメリカでのレコード(CD?)ジャケットが確か『鍬焼(クワヤキ)』になっていたとかいないとか。
なんだそれ?
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とかも観てみたい。このへんは、全部Wikiで監督の名前で検索したら出てきた映画で、粗筋読んで観てみたくなったものばかりです。「マカロニ・ウエスタン」というのは、「マカロニみたいにふやふやで、中身のない」西部劇って意味らしい。酷っ。クレヨンしんちゃんの映画でも、一部で『荒野の用心棒』へのオマージュがなされているとか。やるなあクレしん。
書くだけ書いて飽きて観なかったら恥ずかしいけど、黒澤明監督の『まあだだよ』も気になるところ。内田百關謳カの随筆がモトになっているらしいのです。そのころまで、TSUTAYAの5枚1000円セールがやっていたらいいのですけど。あと『七人の侍』もっぺん観たい。そいで『SAMURAI7』をYOUTUBEで観たい。

なにかにたいして夢中になるのはあんまりヨロシクナイ傾向(現実逃避的な意味)ではあるとおもうんですがおもろいんだから仕方ない。

2011.02.08(tue)00:09

スピルバーグ祭三日目(最終日)

「アミスタッド」

意味はスペイン語で「友情」、実在した奴隷船の名前です。西アフリカから連れてこられた奴隷44名は「アミスタッド号」内で乗組員を殺害します。舞台は1830年代のアメリカ、アミスタッド号で運ばれた「貨物」はだれのものか、「奴隷」たちの反逆行為は殺人罪として死刑に処せられるのか、それとも「彼ら」は自由を手にすることができるのか。そういう話。物語もよかった。大変よかった。おもしろかった。そして主演二人、とくに不動産専門の弁護士が男前すぎてびびった。あとアンソニー・ホプキンズとモーガン・フリーマンが何やってても大好き。そして(これは件のプロフェサー(←教授)(←なぜにわざわざ)から聞いていたことですが)『太陽の帝国』と撮影方法が違いすぎてびびった。 なにがちがう、どう違う、といわれたらとても困る。だが「なんか違う」のは分かる。『太陽の帝国』ではこういう撮影してなかったなあ、という方法がたくさんあったのです。なんというか。『太陽の帝国』のが、素直なかんじ。見やすいとかきれいとか芸術的とか感性のおもむくままとかそういうしょうもない理由が「素直」なのではなくて、その人物を映すためのベストポジションが考えられたって感じ。いっぽうで、93年以降は、「なぜにここでこの映像?」ってのがときどきある気がする。鏡にしても、そこ、なくてもいけるんちゃうん、ってとこに入ってる。ような気がする。どっちがオモシロイかは観る人の判断なのかな。私は93年以降が好み。つうか、それ以前の作品を『太陽の帝国』しか観てないんで、好き嫌いの問題でもないんだけど。

色あせたふうの粒子の粗い暗い画面はそのままです。『A.I.』なんて、これ何年の映画ですかってくらいに画面の粗いところがあった。それゆえ、スピルバーグ作品は部屋の電気を落として観ることをお勧めします。金曜ロードショーや、その他の映画の多くは、部屋の明かりは明るいままでも大丈夫です。画面が明るいこと(銀幕に映像を投射する映画館と違い、液晶ディスプレイは自分から光っているので)、それから映像がクリアで美しいことが理由です。古い映画って、映像の彩度が低いから、テレビやパソコンで観るとき周りが明るいとよく見えないんですよね。
スピルバーグ監督が「アナログ」にこだわるのって、そういうアレもあるんじゃないのかな、と思うのですよ。これもプロフェサーの受け売りですが、「金曜ロードショーは映画じゃない」。つい先週末、『プリティ・ウーマン』やってたんで観てましたが、ああなるほどなあって思いました。『プリティ・ウーマン』は『マイ・フェア・レディ』のリメイク、というかオマージュっていうの?とにかく筋書きが全く同じ作品です。あまり豊かな職業に就いていない主人公の女の子(昔:洗濯娘←花売り娘でした、今:夜のお仕事)で、とある必然性に駆られて一人のとても裕福な男性が、彼女を一流のレディに仕立て上げる話。『プリティ・ウーマン』は『マイ・フェア・レディ』の内容をかいつまんでいて(たとえば一流貴族の言葉遣いに調教するシーンとかはなかった。テーブルマナーはやっていたけど)作中で描かれる時間もずいぶん短いのが主な違い。
二年ほど前、両方の映画をかいつまんで大学の授業で観たのですが、そのとき、『プリティ・ウーマン』はもっと面白い作品だったとおもったし、だから金曜ロードショーを観て、こんなコテコテな話だったかなあと思ったのです。これはCMのせいもだが、字幕じゃないせいだ、声優がそういう芝居してるんだなあ、と思いました。しばしばDVD収録版と地上波放送版で、吹き替えを担当する声優さんが違っているのは、あれ、テレビ視聴に耐えうるようになんですね。DVDで観るのはまだかろうじて『映画』の状態を再現できるけれど、金曜ロードショー(別に日曜洋画劇場でもいいんですけど)は完全に『ドラマ』になる。しかも間にCM挟むから『連続ドラマ』になってる。それってもう『映画』の独特の、周りを暗くして手元にはポップコーンだけ、映画を観ている二時間は、誰に頼まれたわけでもないけど「強制的に」ひとりで銀幕の前に座ってなくちゃいけないふうにして観る『映画』とは、まったく別の作品になるのです。これ、嘘じゃないです。ためしてみてください。ただし『デスノート』とかはどこで観ても『デスノート』やと思う。

よりよい物語を語ったものが法廷で勝利する。元大統領の語る台詞が、もうね、なんともね、キターって感じだね。そしてそのあと、大統領みずからが法廷に立って語る「物語」というのが、いまのアメリカの「(表向きの)物語」なんだろうな。

前に観た『シンドラーのリスト』もとっても良かったですし、先日の『太陽の帝国』も、面白かった。私は運よく戦後六十年経ったニッポンに生まれ落ち、運よくこの場所に奴隷制度はなく、人権の侵害にあったこともなく、運よくご飯を与えてくれる親の元に育ち、おとなになりました。だので、こういう映画を観た時、「ああそうなんだなあ、こういうことがあったのだなあ」と素直に感動してしまうことを、何より気をつけねばと思いました。これはあくまで断片で、同じような物語を語る断片は、一生尽くしても読み切れないくらいに存在しているわけで、ひとつの断片に対する「素直な感動」こそ、始末に負えないものはないと思うのです。
だがおもろい。二時間半、時間を忘れて夢中になります。素敵な映画だ。

書いてるうちに日付がかわっちゃいました。おやすみなさい。

2011.02.08(tue)00:09

スピルバーグ祭二日目。

結局昨日はネットサーフィンに走ってしまい(サーフィンというか、お気に入り巡りとでも称するほうが正しいのですが)本日さきほど「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を観終わったところです。
いやー、おもろい。おもろいよー。さらっと嘘のうまいひとって、なんでこうかっこいいんだろうかね。レオさまにホレそうになりました。

ちょっと追記:嘘がうまいというか、機転がきくってことですね。明石屋さんま的な。どっちもたいして変わらんけど。語弊がありそうだったのでいいなおします。(2011.02.08)

それにしても、「A.I.」に引き続き、「鏡に映った風景」を映す手法が、いたるところで使われているんだが、あれだろうか、のぞき見的な意味があるのだろうか。前に読んだ『眠りと文学』という新書で、鏡に「うつりやすい」ひとと「うつりにくい」ひと、というような解説があった。

「『細雪』では冒頭から、<うつる>ことが問題となっており、実際の人物が姿を見せるより先にその人物の声(会話)と、鏡の中に<映った>姿が提示される。視点がまだ誰のものともわからないうちから、読者はその人物の視点に同化するよう強制され、見えない人物とともに、鏡の中を覗くこととなる。」(根本美作子『眠りと文学』P185)

もっとも、こちらは小説に対しての解説で、谷崎潤一郎が小説のなかでこのような手段をとったがゆえにこういう風に書かれているわけで、鏡を「映す」手段は映画では当たり前であり、とくべつ、驚くべき方法ではありません。それでも、こうもたびたび目にすると、何か意図が、意味があるのではないかと思ってしまったりします。映画というのは既にいちど「映された」もので、その中ではさらに鏡によって「映された」光景がある。「ここにないものがあたかもあるかのように<うつる>現実」(前掲書)というものに、一役買っているのでしょう。そして映画を観ているこちら側にしてみれば、その鏡に映る風景を観ているのは'誰'なのか(本来あるべき「鏡を覗き込む人物」の姿はもちろん映画に映らない)わたしはいまどこにいるのか、現実と虚像のあいだにある<現>に『宙釣り』状態になる。それが映画の効用で、そのめまいを愉しませてくれるのが映画ってもんなのだなあ。
知らんけど。
あとあれだね。電話というのも、面白いよね。刑務所のガラス越しに、カールとフランクが電話で会話するシーン。顔を観ながら電話越しに会話するってのも、不思議な体験だと思うのです。そこにいるけどいない、みたいな。

******

と、いうわけで、二本目「太陽の帝国」。いわゆる戦争映画です。
どうでもいいですが、和製戦争モノの作品(特に八月ごろにかけて集中的に放送されるドラマの類)を観てもちーっとも感動しないのに、スピルバーグさんやイーストウッドさんの描く「戦時中のニッポン」に胸打たれるのは、これ、どういうことでしょうか。『硫黄島からの手紙』も、最高におもしろい(おもしろいんだこれが)から困っちゃうんだなあ。それって、わたしはもはや日本人のがわから観てるよりも、むしろ外国側に立って「あの戦争」というものを眺めているせいかもしれません。うちの母は今年八月に民放で放送されていた『歸國(きこく、と読む。帰国。海に眠る英霊たちが汽車に乗って、現代日本にやってくる話)』にボロボロ泣いたそうですが、その理由とは、「小さい頃はまだ、怪我をした人や目の見えない人が周りにたくさんいた」為だといいます。母が生まれたのは昭和三十年代で、「あの戦争」を思い出す感覚といえば、私が「阪神淡路大震災」を思い出すときに似ているのかもしれません。と、いっても、わたしは大阪出身で、実際に体験しているわけではないので、照らし合わせるのもちょっとどうかと思いますけども、屋根のビニールシートや視界の広い街並み(高い建物が倒壊したせいで)に見覚えがあります。
わたしはこの「日本」という場所に生まれて育ってはいるものの、「あの戦争」について「部外者」の立場をもって評価することの出来うる年代であって(していいか悪いかはおいといて)それってもう、決定的に、なにか当時のひとたちとズレているわけなのですよね。そして(これは『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』の作者こうの史代さんもおっしゃっていた(はず)なのですが)そのような立場の人間が口をはさむと言うことは、当事者だった人間にしてみれば、「お前らに何が分かる」と言われてしまうのです。わたしはしばしば、和製戦争ドラマ(映画はどうかしらんけど)を観て居心地悪く感じることがあるのですが、それは、「部外者」であるせいなのでしょう。

まあそんな話はどうでもいいです。いかんですね。どうもこういう素敵な映画を観ていると持論をふりかざしたくなってしまうので。いま「素敵な映画」といいましたが、主演の男の子の序盤のウザさは半端ないです。だが「観るのやめよかな」とは思わせないんだから凄いね。長いから疲れるけど。そのせいか、後半に向かうに従って引き付けっぷりは尋常じゃないけれど、最初の一時間がややしんどい。
一言で言ってしまうのはとても分かりやすくて簡単で、わたしもしばしばそのような手段で誰かを説得しにかかったり、こういう場所で文字を打ったりしているんですが、ほんとはこういう映画にたいしてやるべきじゃないと思うなあ。まあいいか。
男の子がいます。お父さんとお母さんに愛され育った男の子が、あるとき、一人ぼっちになり、かつて愛されていたということを思い出します。男の子はいろいろなことに裏切られ続けます。というか、ほんとは誰も裏切っちゃいなくて、男の子は自分の元いた場所とは違う<現実>に出くわし続けます。そのような話だったと思います。
撮影している監督が、93年以前と以降で別の人物になっているとのことで、見比べていたのですが、うん、どこが違うって言えないけれど、なんか違うのは分かる。物語としておもしろいのはどっちもだけど、観ていて楽しくなれる撮影は93年以降でした。『A,I.』とかほんとおもろい。

2011.02.06(sun)19:27

コーヒーいれて、チョコをスタンバイして、今日から「スピルバーグ祭」です。

ラインナップは

「A.I.」
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」
「太陽の帝国」
「アミスタッド」

Wikiを必死であさって(←業務中)(←きっとこういう新人は「20代で身につけたい習慣」的な本の中で描かれる典型的な「駄目人間」)あら筋読んでチョイスしました。コンセプトは「節操無い感じ」。
あとほかに、フェデリコ・フェリーニの「道」。母がまえに絶賛していたのを思い出して借りてきました。それでは今から「A.I.」見ます。

******

ただいま。

『ミリオンダラー・ベイビー』でも泣かなかった(耐えた)のに、『A.I.』ではラストのほうでぼろっぼろ泣いちまった。なんてこった。なんてこったスピルバーグ。よくよく考えたら、泣くのもおかしな話で、「近未来のおとぎ話」って、ダブルおとぎ話なわけだ。とうてい、真実味だのはないわけで、荒唐無稽な話であるのに、それなのに「真に迫って」われわれは泣いてしまうわけだ。ディビッドの、母への一途な「愛」は、「愛」っていうか強迫観念に近いものだったし。

ただね。なんかこうね。ディビッドの「旅」は最初から、彼を作った会社によって導かれたものであり、復活した母とのやりとりもまた、未来人(あのキラキラしている人たちはデジタル化された人間、的なもので、宇宙人ではないらしい)のもとになされたものであり、どちらにせよ彼はロボット、アンドロイド、レプリカント、そのようなもので、真実の愛と完全な人間になる、という彼の願い、それによって愛されたいという願いははたして叶ったのか。「完全な人間」であり「真実の愛」をやりとりするわれわれ「人間」がこの映画で泣いてしまうのは、「ロボット」のディビッドが求め続ける「真実の愛」と「完全な(ほんとうの)人間」という願いが、実際のところ、わたしもあなたも追いかけているもので、それを「ない」と思いつつもこころのどこかであればいい、身の回りにはないけれどどこかにあることもあると思っているから、泣いてしまうんではないか。

画面の暗くて、粒子の粗い感じが好みでした。このかんじって、国産ドラマや映画ではあまり見ない類の粗さです。Wikiで仕入れた知識ですが、これは監督スピルバーグの好みで、デジタル式のカメラで撮影を行わないためだそうです。うん。確かに、こちらの方が「映画」って感じがします。最近の邦画やドラマの何があれって、画面が美しすぎることです。少々粗さがあるほうが、こちらとしても「映画」を観ている気分になれるというものです。ためしに部屋の明かりをおとしたのですが、周りが暗い方が、「暗くて粗い」映画に似合います。

さて。まだ九時です。これから『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』を観ようかな。

2011.02.05(sat)21:16

取り急ぎメモ。

よしもとばなな「王国」作品群と、五十嵐大介「リトル・フォレスト」は、おなじことを言わんとしてる気がする。 ↑高橋源一郎さんのエッセイ(「mammo.TV」連載)を読んで。五十嵐大介は、イイ。

タイガーマスク運動はたいへんにけっこうである。それはなぜかというと、誰かの為に何かをしてあげられることは、それがどういう理由であっても、それがお金の関わることであっても、何かしら、何もしないよりは偉大だとおもうから。でも、たくさんの乗客が、身長153cmの地方出身二十二歳を平気で押しつぶしにかかることに対しては、誰も何も言ってくれない。だから私は電車の中で他人をおしつけにしないことを心がける。おしつけにしたときは「ごめんなさい」って思うし必要があれば伝える。タイガーマスク運動で「やさしさ」の再確認をするよりさきに、満員電車のなかの世知辛さ(顔が見える相手にこそ私たちはしんじつ無関心になれるということ)を、マスコミは報道すべきだと思う。毎日新聞の「憂楽帳」とかでいいから。

↑なんかいまふと思いついた。きっとイーストウッドさんのせい。

2011.02.03(thu)01:29

イーストウッド祭三日目。『チェンジリング』

こ……これは……
『ダーティハリー』もそうでしたが、これらの作品はすべて、「社会的なもの」を描いてるようでありながら、ただひたすらに、「一人のにんげん」を物語っているのだなあ、と思ったのですよ。『ダーティハリー』『チェンジリング』どちらも、自分ひとりの力ではどうにもできない大きな勢力や物事に対し、自分の「正義」にしたがって行動する人々が主人公になっている。方向はやや違えど『ミリオンダラー・ベイビー』もしかり。だからこんなに素敵なんだなあ。とまあそういう大味な話は実際のところどうでもよくて、わたしの感想は今日もひたすら、「楽しかった!」これに尽きるのですよ。観ているあいだ、とにかく楽しい。何を観ても楽しい。これって普通じゃないぜ。

どの作品にも共通することが、「本音がわからない」ということ。これは私が、日本的連続ドラマの世界に慣れ親しみすぎたせいかもしれません。心情描写じゃ生ぬるい、感情の爆発だ!とでもいわんばかりの「過剰な感情」(とても・舌を・噛みます)が映し出されるテレビや数多の映画に対して、イーストウッド作品の登場人物は物静かだと思うのですよ。そりゃあもちろん人間だもの、怒ったり悲しんだりはするけれど、カメラを意識して涙の横顔を向けることはない。そういう「過剰さ」がない。……気がする。少なくとも少ないんじゃないか。息子を想って涙をこぼすアンジェリーナさんなんて、「こぼれちゃって仕方ないんです」って風に見えてくる(そう「見せられる」から「クリント・イーストウッドは天才」なんだなあきっと。)
『チェンジリング』ではその「わからなさ」がひときわで、観ているこっちも、何がほんとうなのか、分からなくなってくる。この子がほんとうの息子かどうか、ではない。これはほんとうの出来事なのか(いや当然、映画なんだから、嘘っぱちにきまってるんですけどね)だれがほんとうをしゃべっているのか、この人の言うことはほんとうなのか、分からない。『ミリオンダラー・ベイビー』の明快さに比べて、こちらは観ていて、なんと不安な映画だったことか。
物語の展開にハラハラする、ってんじゃない。不安なんだ。われわれに対して、いろんなことがわからないから。少しずつズームしたり揺らいだりする映像や、暗い色調、切り返し(と、いうのだっけ。向かい合ってしゃべる二人を、互いの側から交互に映す撮影方式)の多い会話、そのへんのものを観ていて不安になってくる。そして不安になる映画って間違いなく素晴らしいんだ。そして面白い。人間の会話と一緒だね。同じ不安でも、アメリカンホラーのような、夜中のトイレが怖くなる不安は違っていて、あれは「ハラハラ」の部類になる。不安っていうのはもっとこう、つかみどころが無く、なにか突然来るものだ。ビビっとくる。不安が。目の前に触れるものや見ているものが、「これってもしかすると夢?」と感じるようなときに似ている不安。長く続くようなら病院(か、北海道の「べてるの家」←とても面白そうな場所、面白いとか言っていいのか知らんけど)に行かなくちゃですが、それが映画だったら面白い。

2011.02.03(thu)00:29

イーストウッド祭二日目。『ミリオンダラー・ベイビー』

「ボクシングの話」とは聞いていたのですが、これってこんな話だったんですね。大変いかにも「良い話」で、最初から最後まで安心してみていられました。『ラストタンゴ・イン・パリ』みたいな不安なきもちにはならなかった。それにしても、モーガン・フリーマンは渋すぎる。『硫黄島〜』も地上波で観て、主演の渡辺健と、二宮くんの演技っぷりに魅了されたものですが、とにかく助演俳優が魅力的すぎるんだぜイーストウッド。
ストーリー面でいろいろな議論もなされていたようですが、そんなもんはどうだっていい。面白いんだから。「だいじなところでお金をつかえ」とマギーに教えるくせに、自分はマギーのタイトル戦でバグパイプ隊雇っちゃうイーストウッドに、家族のために買った家を家族に余計なことをと嫌がられたりするマギー、お金でしあわせになれてない、お金じゃ買えないしあわせを知ってるのがよい。それにしてもあのオチは一体何だ。最高じゃないか。
電話のベルが鳴り響いていたのは、『ダーティハリー』だったか『ブレードランナー』だか忘れたんですけど、でも今どき電話の「ベル」だもんな。

2011.02.01(tue)23:29

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