村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいます。

直近で読んだ村上春樹作品「ねじまき鳥クロニクル」よりも、ちょっと、腰が重たいです。

なんでだろう。

「ダンス〜」が書かれたのは1987年〜88年にかけて。
「ねじまき鳥〜」は一部・二部が1992年〜94年、三部が95年に書かれています。

1980年代中期・後期といえば、バブル真っただ中。
石油危機なんかもあったけれど、エネルギー資源や経済成長に対してだれもが疑いを抱いてなかった、消費社会全盛期でした。1980年に発表された小説、田中康夫「なんとなく、クリスタル」は、そういう消費社会の中でありとあらゆる記号を身にまとい、「まあ、いいよね、なんか気持ちいいんだし」という感性で生きる若者を描いています。「ダンス〜」の中で繰り返される「高度資本主義社会」ということば、羊男が僕に告げることば(「でも踊るしかないんだよ」「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに」)それらは僕に、考えるよりさきに踊りなさい、それこそがこの社会で、世界で、生き延びる術なのだと教えています。

僕は言います。「1969年の世界は単純だった。」
イーグルスも唄ってます。「1969年以来、そういうspirit(酒、あるいはロックの精神、アメリカの精神)はありません」(ホテル・カリフォルニア)

1969年には日本で学生運動が活発化しており、アメリカではウッドスティック・フェスティバルが開かれ、ベトナム戦争まっただ中でした。

極度に複雑した世界、なにを信じればいいのか、なにが正しいのか、そういうものが皆目見当がつかない。強力な意味を、社会があたえてくれない。「自己責任」の名のもとに個人に託されるようになっていったのかもしれない。とにもかくにも、そういう世の中では、とりあえず周りに合わせて踊るしかない。記号と戯れることに全力を尽くすしかない。なぜなら、それがこの危険なよのなかを生き延びるために、一番必要な方法であり、最も「安全」なのだから。
だからみんな、必死になって「Hanako」や「non-no」や「an-an」を読み、ただしい恋愛を学び、ただしいおしゃれを学び、ただしい映画の見方を学び、ただしい笑い方、ただしい泣き方を学ぶ。彼氏をつれてディズニーランドにも行く。

「ダンス〜」では、そういうよのなかへの絶望感と、「踊るっきゃないよ、踊ろうじゃないか、だってそれが一番ベストなんだろ?」という前向きな(?)姿勢がないまぜになっている感じがします。粘着質の水の中を必死に進むような読み応え。読んでいて、苦しい。たぶん書いてた時、村上春樹さんも苦しかったんじゃないだろうか、と、そんな気がしてくる(どうだろう)

「ねじまき鳥〜」には印象的なことばがありました。「僕」ことオカダトオルは、ヘルメットをかぶり、金属バットをにぎり、「これは戦争だ。僕はかならず君をとりもどす」という旨のことばを言い放ちます。(ヘルメット、かぶっていたはず…)
僕は、「失踪した妻」失われたものを取り戻すために、邪悪な何かと真っ向勝負するのです。しかしそれがゆえに、僕の頬には「(邪悪なものに接し、何かが失われたものとしての)しるし」として、黒いアザがつけられてしまう。(ちなみに、1995年には地下鉄サリン事件が起こり、阪神淡路大震災が起こりました。どちらも後の村上春樹作品に登場する出来事です。)

ところで「ダンス〜」は「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」につづく三部作の完結編なのですが、前二作品を読まないままで「ダンス〜」に突入してしまっています(BOOKOFFで単行本500円均一の日に初版見つけたら買うしかない、たとえシールの跡が後ろに残ろうとも)そのためいきなり「羊男」とか言われて面食らったわけですが、このままいっそ、三部作を逆走してもいいかもしれない。

2011.05.22(sun)23:55

× ダブルバインド
○ 認知的不協和

全然違うやないか。

2011.05.17(tue)23:55

これだけよく本を買って読んだり、映画を観たりしているのは、間違いなく神経症だと思うのです。

ごまめです。
自分で言うのもなんですが、私は世間的に見ても「読書家」の部類であると思っています。ところで私は、長らく「趣味は読書です」ということができませんでした。「読書家」と自ら名乗ることへのはじらい、とは、「読書家」であるということは、「(学校で言われる意味で)えらいこと」だからでしょう。私の本好きの起源もおそらくそこにありますし、「趣味は読書です」と言えないことの裏には、「先生にほめられるようなリッパな本(近代文学とかね)を読んでいない」ことへの罪悪感も会ったと思います。こういうのをダブルバインド? じゃなくて、まあ、それはどうだっていいです(思いだしたら書きます)

さて、読書に続いて「映画」です。私は映画が好きで見ているのではないのです。映画を見れば面白い、と思うし、もっと見たいとも思いますが、それは「好き」とは違うのです、なんというか。映画を観ることも、本を読むことも、あとは音楽を聞くことも、社会的に「よいこと」です。映画が嫌いな人も、音楽が嫌いな人も、まずいません。読書は、小説がメディアとしての権利を失ってしまったので、ずいぶん嫌われ者ですが、それでも「おれは読書なんか嫌い!だいっきらい!」と正面切っていうことは、憚られます。本を踏んだり投げたりすることもタブー。というか、罪悪感を抱きます。(そう言えば昔、新聞踏んで怒られたことがありました。)

じゃあ「好き」でもない読書や映画や音楽を、「それをしていることが社会的に善である」という理由だけで、聴いたり読んだりし続けられるものなのでしょうか。
答えは「できる」。多分できる。なぜならそれが「よいこと」だから。たったそれだけの理由で、自覚もなく、反復して音楽を聴いたり映画を観たりできるのは、神経症のあかしです。
私がこうして本を読んだり映画を観たりしているのも、「よいこと」だから、しているのです。

それとは別に、こうも思います。「本好き」を名乗る人々は、しばしば、好きな作家の作品を読むと、その人が影響を受けた作品にまでさかのぼって読むことをします。それはおそらく「この作家の起源はどこにあるのかを知りたい」欲求であり、「この作家と同じような視線をてにいれたい」欲望だと思います。

私が映画を観ているのも、たぶん、そういう理由です。
この映画を観た人物が何を考えていたのかが知りたくて映画を観ているのだと思われます。

2011.05.16(mon)23:30

イーストウッド監督・主演作品「許されざる者」を観ました。
ああ……おもしろかった。夢中で見続けておりました。至福。

イーストウッドというひとは、もともとはテレビの西部劇ドラマシリーズで名を知られるようになり(それまではとても不遇の時代だった)映画監督のセルジオ・レオーネに『荒野の用心棒』で主演に起用されて以降、大人気俳優になったという経歴の持ち主。「許されざる者」という映画は、「西部劇らしからぬ西部劇」です。

普通の「西部劇」に比べて、なにかが足りない。あるいは、余分である。

余分はすぐに分かります。この映画の主要人物であるモーガン・フリーマンという「黒人」の存在です。
西部劇というものを、初めて観たのが『荒野の用心棒』なので、どうして「黒人」が余分なのか、ということを実感として知っているわけではないので、受け売りですが、それまでの「西部劇」に黒人俳優が目立ってででることはなかったといいます。と、いうのも、「西部劇」はフロンティアを失ったカウボーイたちの、大事な再就職先だったからです。それが、黒人カウボーイもたくさんいたのに、白人カウボーイだけがカメラに映っている理由のひとつです(内田樹「映画の構造分析」より)
確かに、言われてみれば、「黒人のカウボーイ」って、あまり想像しませんよね。今までの「西部劇」に欠落していたものが「黒人」というわけです。

足りないのは、主人公が女を抱かないことでしょうか。イーストウッド演じる主人公は妻帯者で子どももいます。それを理由に、酒も飲まず、娼婦も相手にしようとしません。とても真面目。「西部劇っぽくない」。「西部劇」のなんたるかを知らない私でも「西部劇っぽさ」は分かります。
酒場でウイスキーのグラスを傾ける主人公、背後には銃を構えるならず者たち。彼らの銃が火を吹くより早く、主人公はカウンターの後ろに回り込み、一発でならず者たちを仕留める。グラスを拭く姿勢で固まる酒場のマスターに「迷惑掛けたな」と一言、酒の代金よりもずいぶん多めの小銭を支払って、観音開きでビョンビョン揺れる式のドアを押し、馬にまたがる。その後ろ姿を村娘が窓から見送る…これ、「西部劇っぽい」ですよね。…ですよね?

西部劇で出世したイーストウッドが、なんで「最後の西部劇」を撮影する必要があったのでしょう。
何かの制度を乗り越えるには、その「内部」から崩していくしかない。西部劇と銘打たれる「許されざる者」全編にあふれるのは、「暴力なんて、ろくなもんじゃないぜ」という、厭世感。無常感。暴力を行使して「いい思い」をする人間が一人もいない。「西部劇」に最大の敬意をはらいつつ、「西部劇」の根幹をなしているといえる暴力、「他人を傷つける、殺害する行為」に対抗するためには、こういう映画を撮るしかなかったのかもしれない。

あと、あんまり確固たる自信はないですが、「ドン・シーゲル監督とセルジオ・レオーネ監督にささげる」映画ということで、がんばってオマージュ箇所を探しました。主人公が「ライフルは苦手」なのは、レオーネ監督『荒野の用心棒』の「名無し」と同じだし、「弾丸があと一発あるかに見せかけてない(あるいはある)」のは、シーゲル監督『ダーティ・ハリー』だと思ったんですよ。ちがうかな。どうでもいいか。

2011.05.14(sat)23:30

匂いのする文章、というものがあります。あるいは、映像でもかまいません。映画『プライベート・ライアン』は戦争のにおいがします。血の匂い、磯の匂い、土の匂い、雨の匂い。ところでヒッチコックの『鳥』は、あれだけたくさん鳥がでてくるのに、鳥のにおいはしません。主人公メラニーを襲う鳥は、ほんものの生きた鳥ではなくて怨霊なのでしょう。たとえば、メラニーと恋仲になる男性ミッチーの母・リディアの抱く怨念だったり、港町にやってきた"よそもの"のメラニーを見つめる住民の視線だったり。と、まあ、これは受け売りですが。

何もないところに何かが「ある」ように見せかける。そのように、受け手を引き寄せる。そのために必要なのは、過剰な描写ではなくて、「欠落」だといいます。欠けたところを埋め合わせるために、受け手はあれやこれやと想像力を働かせます。隙間に、本来存在しないはずの「匂い」がうまれる。隙間には風が吹いています。匂いは隙間から吹く風にのって届きます。その隙間に吹く風は、村上春樹の処女作『風の音を聴け』に吹いている風なのでしょう。

決定的に何かが欠けている。
そこに、あってもよいはずのものが、ない。

そういう「欠落」を、なにかのたとえ話にして伝えるのが最高にうまいのが、村上春樹だったり、スピルバーグだったり、イーストウッドだったり、するんだなあ。

2011.05.10(tue)23:36

ただいま。ごまめです。

家族、友人等と会って来ました。
急に、あたりが静かになりました。
それだけ、楽しい七日間だったということでしょう。

さて、すこしだけ、考えたことがあります。
大学の後輩が現在就職活動まっただ中です。彼は「鉄道会社」を志望して就職活動に励んでいます。あるいは、「音響」に関わる仕事がしたいと言っています。五月に入り、鉄道会社の募集も減りました。そもそも、「鉄道会社」の絶対値がすくないため、彼は最近もうひとつの希望である「音響」に狙いを定め、就職活動に励んでいます。

「自分にはやりたいことがある」
「やりたいことならば、どんなしんどい仕事でも構わない」

なるほど。
私は彼の「夢」を批判するつもりはありませんが、彼の「夢」への姿勢には反論します。
「したいこと」を語る人間は、それ相応の犠牲を払うものだと思っています。

言わずもがな、彼の就職活動は難航しています。「鉄道会社」も「音響にかかわる仕事」も、母数が少ない業界です。加えて、彼は鉄道について専門的に学んでいたわけでもありません。音響も、部活で少し触ったというだけで、技術があるわけではないのです。本人もそれは自覚しています。でも、彼は現在の就活スタイルを崩す予定はないようでした。でも、「就職活動」というイベントでは、後半になればなるほど希望する会社の数は減ってゆきます。少しでも早いうちに「手当たりしだい」モードに切り替えたほうが、まだ少しは「働きやすい」会社にめぐり合う可能性が大きくなるものです。たくさんの人が行きたがる出版会社や新聞社、アナウンサーといった、メディア関係の会社、一般市民として最も強力な『権力』を持つことのできる会社の内定発表が、どんなに不況だろうと最も早い時期に行われるのと事情は似ています。

「やりたいこと」って、「働く」ということには、そんなに大事なんでしょうか。それとも、「やりたいこと」や、「夢」や、「目標」のない人間は、人間じゃないとでも思われるのでしょうか。でも、ほんとうに「やりたいこと」がある人間なら、「就職活動」なんて、しなくてもいいじゃないの。

2011.05.05(thu)23:36

「お金がない。」

この状態はどういうことなのか。
こんにちは。ごまめです。

先日、大学の後輩が遊びに来ました。私も先輩におごってもらった身なので、後輩には「おごり返し」をします。 その子が遊びに来るのは二度目で、就職活動で東京に来たときには、必ず連絡をくれます。学生が東京にやってきて、街のネットカフェや漫画喫茶で一夜を明かすのもいいけれど、お金がかかるし、私は蒲団と寝床を提供できる家があります。ご飯もときどきついてきます。
彼は学生なので私よりはビンボーです。でも私だって「お金が無い」のに。

今日はおごってはいけない日だな、と思いました(結局おごったけど)
そんなわけで、今日は「お金が無い」日だったのでした。新幹線の切符買ったから余計だな。

明日から里帰りしてまいります。六日あたりまで、更新が停滞します。

2011.04.28(thu)23:36

a.初めの状況を決定するプロローグ
b.家族の一員が家を留守にする(不在)
c.主人公に対して、なにかが禁止される(禁止)
d.禁止が破られる(侵犯)
e.敵が情報を求める(情報の要求)
f.敵は、未来の犠牲者に関する情報を入手する(情報の獲得)
g.敵は犠牲者を欺いて、彼または彼の大切なものを奪おうとする(奸計)
h.犠牲者は罠に落ち、心ならずも敵を助ける(犠牲者の協力)
A.敵は家族の一員に対して、何か害を加える(加害行為)[または何か大切なものが足りない]
B.不幸に気づく。主人公にこの不幸の回復が依頼されたり、命令されたりする(救助の依頼または派遣)
C.主人公は加害行為を回復することを引きうけるか、自発的に決意する(反撃の承諾)
←主人公が家を出発する(出発)
D.主人公は、魔法の手段を手に入れるための準備の試験を受ける(贈与者の最初の機能)
E.主人公は、未来の贈与者の試練にこたえる(主人公の反応)
F.魔法の手段が主人公の手に入る(魔法の手段の譲渡)
G.主人公は、目指す目的の近くに到着する(もう一つの王国への移動)
H.主人公と敵は決められた戦いに入る(闘争)
I.敵は敗れる(勝利)
J.主人公が、印または傷を受ける(烙印)
K.加害行為は回復される(回復)
→主人公の帰還
Pr.主人公は追跡される(追跡)
Ps.主人公は助かる(脱出)
O.主人公はこっそりもう一つの国または自分の家に到着する(気付かれずに到着)
L.偽の主人公が手柄を立てたのは自分であると主張する(うその主張)
M.主人公に難題が課される(難題)
N.主人公が難題を解決する(難題の解決)
Q.主人公が認知される(認知)
Ex.偽の主人公または加害者の正体が発覚する
T.主人公の変身(変身)
U.偽の主人公または加害者が罰せられる(処罰)
W.主人公は結婚するか、王位につく(結婚)

以上、大塚英志『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』から、まるっと抜粋しました。『物語の体操』に書かれたこの一覧も、違う書籍から抜き出したものに手を加えたものだそうです。

先日の「スターウォーズは昔話」という話ですが、スターウォーズの話の流れは、なんとなく、これに当てはまります。監督のジョージ・ルーカスは古今東西のファンタジー名作だの昔話だのを研究したとのことです。映画の出だしも意識的です。「遠い昔、遥か彼方の銀河系で…」。「今は昔…」と同じですね。ちなみに「源氏物語」の出だしは「いづれの御時にか…」ですが、これは「いまではないけれども昔の帝のころ」というニュアンスで、「今は昔」とは異なり、「現実と地続きの過去」を思わせる書きだしとなっているそうです。スターウォーズはその逆ですね。

当然ですがFFシリーズも、この流れにほぼ合致することと思います。ちなみに、『物語の体操』内でも、物語の例としてスターウォーズと「ダンジョン&ドラゴン」系RPGがたびたび挙げられています。この一覧は「物語」の「機能」であり、昔話などは余すところなくこの一覧に収まるといいます。でも、どのエピソードがどこに当てはまるか、ということは「解釈」なのでやりません。覚えておきたいのは、「だいたいよく聞く話というのは、これら31の機能をもちあわせておるものだ」ということです。それは、根っこをただせば、すべてこれらの機能に還元できるということです。

FFシリーズの魅力も、スターウォーズの魅力も、根っこは「誰もが知る物語」というところにあります。
「誰もが知る物語」とは、型に嵌まっていることです。その意味で、新しくない。大きな物事の枠組みのなかで、少しずつ語り口を変化させているにすぎない。この「誰もが知る物語」から出発した物語が、いかにして、この枠組みから抜け出そうと試みる、その試みが、「他の作品とは異なる(=今までにない、新しい)作品」になる。
べつに、それがいいってわけでもありませんし、そうでなければならない必要はどこにもない。
でも、そういうことに自覚的である物語って、面白いと思います。知らないで作った物語より面白い。

ところで、FF9は、驚くほどこの枠組みに合致しています。FF9は、ストーリー面でもビジュアル面でも、いろんなところで「ノスタルジック」だの「郷愁を誘う」だの言われていますが(どちらも同じ意味ですが)、これは当然です。でも、だからといって、それが「新鮮味のない駄作」にはならないと思います。むしろ、その「王道」からの脱却を試みるという点では、FF9は真っ向勝負をしかけているともいえる。地味だけど根強いファンがいる要因なのでしょね、とわが身を振り返って思うのでした。

2011.04.24(sun)23:36

初めて『スターウォーズ』をまともに観ました。
こんばんは。ごまめです。

相方が観たいというので、しゃーなしで、手始めに『スターウォーズ エピソードT/ファントム・メナス』から観ました。現在『エピソードW/新たなる希望』まで観終わったところです。四本観ましたが、最も面白かった、胸躍ったのはWでした。

…なんでだ?

話のテンポははT〜Vのほうがずっと速く、CGも美しい。Wのストーリーは助長な感すらあります。なのに、とても、面白いんです。
理由として考えられるのが、ストーリー展開が、びっくりするほど『ファイナルファンタジー』シリーズに似ているということ。と、いうのは、要するに、『スターウォーズ』(ひとまずWに限る)は典型的な「昔話」の形式にのっとっている、ということです。

「独裁的な支配者が君臨する世界」
「主人公は自らの出自について知らず、伯父夫婦のもとで暮らしている」
「囚われの姫から『だいじなもの』の運搬を依頼される」
「暮らしていた家を失い、育ての親を失う」
「主人公は辺境に暮らす老人の助けを借りて故郷をはなれる」
「老人は、主人公と、その敵についてよく知っている」
「主人公は老人から『特別な力』について伝授される」
「主人公には行動を共にする友人ができる」
「友人とともに囚われの姫を助ける」
「老人がいなくなり、直接的な手助けをしなくなる(霊体として陰ながら助ける)」
「主人公は『特別な力』を用いて支配者を打ち破る」
「主人公らには褒賞が与えられる」

ざっとこのような具合。「桃太郎」にでもあてはめればいいかもしれません。誰もがよく知る「昔話」を次なるフロンティアたる宇宙空間で「すこし・ふしぎ」な話として繰り広げられたのが、『スターウォーズ』だった。「宇宙一強大な力を持つ崇高な騎士」って設定も、そうとうウケたのでしょうね。元は善の力をもったものが、力に溺れるあまりに悪へと染まるというのも。

どうでもいいんですが、なんで『スターウォーズ』の世界では、政治的な対立はあるのに、宗教的対立がないんでしょう。
重ねてどうでもいいですが。主人公ルークの幼馴染に「ビックスとウェッジ」がでてきたのはびっくりしました。
あと、レイア姫は美人でした。チークが赤すぎるのと、アイラインがパンダみたいになってるのが悪いだけ。

2011.04.16(sun)23:36

こんにちは。ごまめです。

勤務地がかわり、いまは新宿ちかくのビルにいます。二年目ほやほやの私、一人っきりでそこに派遣されまして、協力会社の方々に囲まれながら仕事をしています。週に二度、上司が指示と状況把握のためにやってきます。
なかなか、スリリングな毎日を送っています。
そこでは、どうしても、いままでより人と会話する機会が増えました。と、いっても、営業やサービスといった仕事をなさる人とくらべれば、貧相な会話量です。それでも、この一年、ほぼ一言もしゃべらない日すら会ったことを思い出すと、大躍進ともいえる喋りっぷりなのです。

「会話が無いこと」それ自体が苦痛。

「話し相手がいない」ということを、苦にすることはないだろう、いいや苦にしまい、と思ってきました。「話し相手がいない」というのは「ともだちがいない」と似た響きをもっています。「ともだちがいない」ということが恥ずかしいので、輪になって喋るし、電車でケータイもするし、道端ですれ違った見知った顔に大声で呼びかけます。それができなければトイレでパンをかじります。違うのです。本当に苦しいことというのは「会話しないこと」だったのです。とにかく声に出すこと、ことばを使うこと、「誰かにむけて」ことばを話すこと。それは、電話越しの母との会話ではまかなえないレベルの出来事だったのだと思います。

「会話しない」状態が長く続くと、会話の仕方を覚えません。この一年間、私は「社会人の話し方」を身につけるべきであったこの一年を、棒に振ったのだと思います。

そんなわけで、いま、「会話の勉強中」です。今は絶好の機会あり最後の機会です。来週で一カ月がたちます。気付いたのですが、私は、どうも、ことばに詰まるクセがあります。頭で順序立てて考えたことを伝えることはできる。あらかじめ、予行演習をしたことばであれば、スラスラ喋れる(べつに、私に限った話ではないでしょうけど。)それがとても明確。「これについてはイケる、でもこっちはだめ、全然ダメ」。なので、ひとたび考えがおっつかなくなった時、一言も喋ることができなくなる。ほんとに何も言えなくなる。まじで。これ、ちょっと問題よね。多分そのために必要になるのが、「社会人のことば」なのです。「社会人のことば」をつかうということは、「社会人のあたま」で考える必要があります。たぶん、ことばが何とかなれば、あたまも後からついて行くんじゃないだろうかと思います。

と、いうわけで、ひとまず今は「ことばの勉強」をしようと思うのです。

2011.04.11(mon)22:36

桜の季節ですね。

『花霞』ということばがあります。「満開の桜の花が、遠目には霞みがかったように白くみえること」(goo辞書)だそうです。春になり初めの季節、冷たい空気はやわらぎ、境界線があいまいになる心持ちがするのを思うと、『花霞』には、もうすこし恐ろしい意味合いが含まれているようにも思います。『花霞』の発明者は、霞の向こう側に彼岸を見ていたのかもしれません。

2011.04.10(sun)23:29

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