「コクリコ坂から」を、観てまいりました。

まず、見に行こうかどうしようか迷っている方へ。「いままでのジブリ作品のファンであるなら、やめときな」

そして、今後のジブリが気になる人へ。「必見です」

私は今後のジブリがとても気になるので、見られて良かった、と思いました。でも、ジブリが好きなら、気になっていない人はいないのではないかしら。今後のジブリが気になるということ、それは、「今後アニメはどうなるのか」や「今後私たちは何を考えていくべきか」にもつながるのではないかと思うのです。

2011.07.31(sun)23:29

私は「今ある自分を否定するわけにはいかない」ということについて。

たとえば、最近とみに話題の「電力」ですけれど、いくら「ゲンパツはだめだ、危険だ、やめよう」と唱えても、今までゲンパツに頼っていたという「事実」をなかったことにはできません。今、日本で生きている人で、「電気」のお世話になったことのない人は、いない。今、「ゲンパツは危険だからやめよう」と思い始めた私たちは、それまでこれっぽっちもその事実について思いをはせたことはなかった(追記。少なくとも私はそうなのですよ)
電気はあって当たり前のものだったし、蛇口をひねればそのまま飲める水が出る。
なんかわからんけど、そういうことになっているから、そうなのだろうと思っていました。

思えば、なにもかも、「なんでこうなってるのかわからん」物事ばかりなのです。

ただわかるのは、ちょっと詩的な言い方をさせてもらうと、「ここは歴史の最先端」ということです。歴史の最先端にあるのは、足跡のついてない砂浜ってわけではなくて、ちゃんと道があるのだと思われます(そうでなくちゃ、誰も歴史を勉強したりしませんよね)五十年前の道は舗装されてない大通りだったのでしょう。三十年ほど前は、アスファルトで舗装された道をみんなで自動車に乗っていた。今、目の前にあるのは、あちこち舗装がはがれていて、車もガス欠で脇に止まっている、そういう道。なんかわからんけど、いつの間にかそういうことになっていた。でも舗装がはがれちゃってずいぶん歩きにくくなっているからといって、舗装を敷いた人を責めるわけにもいかないし、それを直さなかった人を責めるわけにはいかない。自分だって、途中からその道を歩いてきた。

なんか、そういうことを考えるのです。
過去の人を責めるということ、「これはオレのせいじゃない!」と言えるのは、生まれちゃう前の人だけだと思います。ゲンパツの話を最初にしちゃったから、どうもそのようなニュアンスになってしまいがちですが(すみません)、なんでも一緒だと思います。生まれちゃったら、舗装が悪かろうが車が動かなかろうが、なんとかして生きなきゃならんのです。何かのせいにするのは簡単ですが、その「何か」があるから今の自分がいるわけです。たぶん。

なんだかいつにもましてまとまりがありません。ツイッターのやりすぎでしょうか。ごまめでした。

2011.07.30(sun)00:19

すっかり夜もふけてしまいましたこんばんわ。ごまめです。

最近めっきり日記の更新が減ってしまいましたが、ちょくちょくTwitterには出没しています。おもに、映画や古事記(こうの史代さんのWeb連載漫画「ぼおるぺん古事記」の影響で、読み始めたのです)の話などをしています。ときどき友人トークが挟まったりしますが基本的にはいつも毒にもクスリにもならないことをつぶやいています。フォローなどはお気軽にどうぞ。一声かけていただけたらこちらからもお返事します。

以上、近況報告でした。
そのうちちゃんと日記も更新しようっと。

2011.07.24(sun)01:19

本は読んでいませんでした。映画を観たり、音楽を聴いたりして、過ごしていました。

どうも、ごまめです。気付けば日記をずいぶんとほったらかしにしておりました。最近どうも心身ともにヨロシクない状態が続いております。どこが悪いというのではなくて、そういう時期だとしか言いようがありません。こういうときは、嵐が過ぎるのを待つみたいにじっとしているしかないのだと、思います。

今日、テレビをつけたら「ゲド戦記」をやっていました。懐かしい! 確か、劇場で観たのは高校生の頃だったか? 2006年公開だそうなので、高校生ですね。主人公と近い年齢だったので「親殺し」に過敏に反応した記憶があります。 いたるところで酷評された「ゲド戦記」でしたが、そんなに酷い印象がなかったのですよね、当時。原作を途中で挫折していたのと、少ないお小遣いから劇場へ行ったのもあるかもしれないけれど。(て、いうか、多分その通りなんだけどもね)ただ、世間の酷評っぷリに、「そこまで言うか?」と思ったのは間違いないのでした。

ハイタカって「夜回り先生」みたいよね。って感想だけ覚えてる。

明日公開の「コクリコ坂から」が楽しみなのでした。1980年に「となりのトトロ」で1950年代を描くのと、いま、1960年代を描くことは、かなり違った意味があるんじゃないのかな。とはいえ、「映画は時代を描くのではない」(公式サイトより)。たぶんだけどね、ありきたりな一人の誰かを描くこと、その誰かを知ること、感じることが、私たちのルーツを知るってことにつながるのかもしれない。「コクリコ坂から」が楽しみなのは、私が大好きな漫画のひとつ、こうの史代「この世界の片隅に」と、似通ったにおいを感じるからかもしれません。

そんなわけで要約すると、「ジブリ新作楽しみ!」なのでした。おやすみなさい。

2011.07.17(sat)00:19

ビビできたよ!



ベルトはあきらめたんだよ!

2011.07.02(sat)23:29

七月に入り、私が現在勤務中のビルも節電対策をはじめたようです。
冷房の設定温度があげられて、フロアに熱気が立ち込めております。
これが、ほんとに、キツイ。想像以上にキツイ。発熱源(パソコン)の前にすわりっぱなしなのです。頭もボーッとしてきます。雨もまだ降るので湿気もあります。これでストッキングはいて、椅子に座りっぱなしなんだから、体中にじっとり、嫌なかんじの汗がにじみます。
そこらじゅうで卓上扇風機がフル稼働をしていますが、これも、もしかすると近日中に使えなくなるかもしれません。クーラーの温度上げても、扇風機まわされていたら、節電になりませんからね。

私が「部屋の中で熱中症になりそうですね」と言ったところ、「僕はそこまでじゃない」と返した上司でしたが、一時間後には「熱い熱い」と繰り返していました。

上司「でも、ここでたとえ熱中症になったとしても、自己責任だからね」

そ、そうなの?

多分それが「自己責任」なのは、会社的、社会人的に当たり前です。考えるまでもないことですが、でも、納得できない。だって、たとえ水を飲もうが涼んでみようが、熱いものは熱い。すこし体調が悪かったり、もともと体温の高い人なら、部屋が熱けりゃ具合も悪くなるだろう。それを、「まあ、仕方ないよね。自己責任だよね」と言ってしまって、良いんだろうか。場所が学校だろうが同じことが言えると思います。生徒が体育の授業中に熱中症になった場合、「責任」は生徒にあるのか、それとも先生にあるのか?

もちろんですが、節電に反対しているわけではありません。
今年の夏が「熱い」ことは、三か月前から分かっていたことです。

私は「自己責任」ということばが嫌いです。はっきりいうと嫌いなのだと思います。だって、ほんとは「自己」で「責任」なんかとってない、とりたくない人間が使いたがることばであるように思うからです。会社に「責任」があるとも思いません。会社だって、好き好んでフロアを熱くしようと思っているのではないのです。

「部屋が熱い」のは仕方ない。
でも、そこで熱中症になっちゃう「責任」は、自己にも会社にもないのではないだろうか。

私や、私と同じような境遇の人が、自分の部屋で水分取らずに居眠りして熱中症になったとしたとき、誰かのせいにするようなことはないと思います。でも、お年寄りや、体の自由が効かない人、クーラーが買えない・使えない人に、私と同じ「責任」が発生するのだろうか。私には、今のところ、身体にある程度水分も蓄えてられる若さがあるし、部屋が熱けりゃマクドかネカフェに出かけて涼むことができます。寝苦しい夜にはクーラーも使います。でも、そのどれもができない場合、私は自分の熱中症を全面的に「自分のせい」とすることに、反感を抱くと思うのです。だって、歳をとるのも、身体の自由が効かないのも、クーラー使えないのも、「私のせい」じゃないんだもん。
対策をとることはできます。でも、それでも熱中症になってしまう可能性は十分ある。そのとき、そのような場合にも、「自己責任」が問われるのでしょうか。

繰り返しますが私は「自己責任」なんざクソクラエと思ってます。そういう責任を持ちたがるやつが、「十年後のキャリアプラン」とか「夢は自分でつかみとれ」とか言うから、世の中めんどくさいんだと思います。そんなもん、なるようになるしかないじゃないの。
こうしてみると、私は「自己責任」ということばが嫌いなのではなくて(悪いことしてないのに嫌われることばにしてみれば、いい迷惑ですね。『ファシズム』とか『ウヨク』とかもそうですけど)それを使う側が嫌いみたいです。

自分の身は自分で守るしかない。しかも今はそれが強く求められるご時世です。地震があってからこのかた、「どうやって自分のいのちを守るのか」が強く問われるようになりました。
巷で囁かれはじめたのは、「自分で考えるしかない」ということです。
そのとおり。自分で考えて行動するしかない(たとえそれが危険をはらんでいるとしても、自分の頭で考えない危険よりはマシだから。)

「それはあなたの責任です」と誰かに言うことは、それは、その出来事に対する自分側の責任を放棄してるんじゃないのか。「あなたがその状況におかれたのはあなたのせいで、わたしのせいじゃない。」と誰かに向かって言うことで、安心したいだけじゃないのか。そしてそれは「自分の頭で考える」ことになっているのか?

そんなことを今思いついたのでした。
たぶん、これって、いろんなことに関わることだと思います。「責任問題」の胡散臭さって、「そういうあなたは、どうなのよ?」ってことだと思うのです。それを非難することが、あなたにはできるのか。わたしにはできるのか。それって、あなたやわたしを超えた、なんか良くわからないでっかい意思のようなものの働きではないのか? それを恋愛漫画は「運命」と呼ぶし、社会学は「社会」と呼ぶ(多分)し、政治学は「国家」と呼ぶんじゃないのかな。よくわからんけど、私はそれのどれでもないし、こういう割に実感はさほど持ててはいないけれど、それらに含まれているとおもうんだ。

「自己責任」って、他人に向かって使う言葉じゃないのと違う?
少なくとも私は使いたくない。そう思ったのでした。おわり。

2011.07.02(sat)23:29

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