でも、いくら本を読んだところで、結局「じぶん」の輪からは逃げだせないままなのです。

ごまめです。
おそらく「読書」は、どこまで煎じつめても、最終的には「個人の体験」でしかないからです。もちろん、「本を書いた人」と「本を読む人」は別人ですが、書いた人のことばを受け取り何を感じるか、は、本人次第ですから。たぶん、ほんとうに「読書」するには、もうひとり必要なのです。

まあ、それはいいです。

『ミュウツーの逆襲』の話をしたら、無性に映画ED曲の「風といっしょに」が聞きたくなり、動画サイトで聴いてまいりました。当時、映画もそうとう好きでしたが、曲も好きで、たしかわたしが初めて手にした自分のCDが「風といっしょに」のシングルだったとおもいます。
で、思ったのですが、映画の内容におもいを馳せながらこの歌詞を聴いていると、どうしてわたしがFF9にハマったのかも、分かるような気がしてきます。

『ミュウツーの逆襲』は、「じぶんとはなにか?」がテーマ。ミュウツーは、幻のポケモン「ミュウ」の遺伝子からつくられた、人工のポケモンなのです。

「私は誰だ。私は何の為に生きている!
 私は人間に造られた・・・。だが人間ではない。
 造られたポケモンの私は、ポケモンですらない!!」

そしてこの後、「オリジナル」対「コピー」の熾烈な争いが繰り広げられることになるのでした・・・と。

2011.10.25(tue)22:22

本は二度読むものです。

ごまめです。

本に限らず、映画でも、アニメでも、「二度」観ないと理解できません。
わたしだけでしょうか。一度ですんなり理解のできる人が、大半なのでしょうか。
まあ、いいです。

とにかく最初に一度観る。あるいは読む。「なんじゃこりゃ?」と思って、しばらく触れないようにする。いくつか別なものにふれて、「そういえば、前に観た○○が気になる」と思い始めたころに、もう一度観る。そのようなサイクルなのです。
自分にとって大事な本、本棚においておけば、そこから「ごまめ」がにじみ出てくるような本は、二度目に耐えうる本だと思います。

他人様の書いた本から自分がにじみ出てくるなんて、ちょっと、いやかなり変ですかしら。

なぜか数日前から、小4〜中2にかけてハマり倒した「ポケモン」への回顧がとまらなくなってしまいました。それにしても、やれやれ、自我形成の最も激しい時期が「ポケモン」だ。それというのも、『Webアニメスタイル』というサイトの、初期の「ポケモン」の脚本を書いた、故・首藤剛志さんのコラムが面白すぎるせいなのです。そのうち『ミュウツーの逆襲』について熱く語り始めるかもしれませんが、そのときはまた。

2011.10.21(fri)23:35

鏡は不気味である。

何故か。
「自分の姿が映るところ」だ。

『古事記』では、天岩屋にこもってしまった天照大神を引っ張り出すために、「鏡」が用いられる。天照大神は、鏡に映った自分の姿を「いよよ奇(あや)し」とおもって、外に出てくる(ひっぱりだされる)のである。

これは、人間の成り立ちの部分を語っている。

人間の発育段階のひとつに、「鏡像体験」というものがある。
あるひとりの人間が、はじめて「自分は『人間』である」と認識するとき、かならず「他者の像」が必要になる。鏡にうつった「自分(他者としての自分)」と、鏡を観ている「自分」が統一される。

ところで「鏡」は、しばしば、「不気味なもの」を映す。
町を歩いている。視界の片隅で、ちらりとだれかと目が合う。あわてて振り返る。ショーウインドウに自分の姿が映っている――というような体験は誰もが経験するところだと思う。だれかとは自分である。ホラー映画でも、鏡は「だれか」の視線を映す。
鏡の向こうから「だれか」に覗かれていることは、耐えがたく不気味な経験なのだ。

ひとは夢をみる。夢をみて、「精神をよぎる不気味ななにか」に触れることで、人間になる。(三浦雅士『身体の零度』)夢に現れるのはいわゆる「無意識」だ。鏡に映る「不気味なもの」とは、かつての自分、統一された自我をもつまえの、寸断された自分の視線であり、その不気味さこそ、ことばによって世界を規定してしまうまえの、もっとも原始的な部分での「人間らしさ」なのである。

*

というようなことを考えた。思いつきが逃げてしまわないうちに書き止めた。
恥ずかしながら書きとめた。

ごまめでした。

2011.10.05(wed)23:53

たまにはFFの話も。

ニコ動なんかで『あの声優さんはこんな役もやってる』系の動画を観ているうちに、私も自分の観たことのあるアニメでやってみたくなりました。というか、ニコ動であがっているアニメに知らないものが多すぎたので、自分でリストアップしたくなりました。
なので、以下、やってみます。
「観ていたし筋もしってるけど思い出せない」登場人物も、モリモリ含みます。

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ウォーリア・オブ・ライト(CV.関俊彦)
ムース(らんま1/2)土井先生(忍たま乱太郎)、松野豊(海がきこえる)、幻想魔伝最遊記(玄奘三蔵)、FF:U(シド)、巷説百物語(山岡百介)、妄想代理人(馬庭光弘)
好きな声なので関さんが登場するアニメは良く覚えていたりします。「天空の城ラピュタ」に、林原めぐみさんがクレジットされているのは気付いていたのですが、関俊彦さんも出てたんですね。クレジットなしで。初期ジブリの脇役は大変豪華キャストです。

ガーランド(CV.内海賢二)
ジャルジェ将軍(ベルサイユのばら)、則巻千兵衛(Dr.スランプアラレちゃん)、アームストロング大佐(鋼の錬金術師)、川津明雄(妄想代理人)
金曜ロードショーを含めたらもっとあるのでしょう多分。

フリオニール(CV.緑川光)
山尾忠志(海がきこえる)、銀河星十郎(美少女戦士セーラームーンR)、クリア(FF:U)、羽柴空(好きなものは好きだからしょうがない!!)
なにものだ、銀河星十郎。最後のは「高校のときクラスメイトに一押しされて試しに観たらなんか無理だったのでOP後五分でチャンネル消して寝た」サンテレビのBLアニメ。サンテレビは土曜のゴールデンタイムに釣り番組とか放送してる兵庫のチャンネル。

皇帝(CV.堀内賢雄)
ナレーション(平成イヌ物語バウ)、ワタナベ(学級王ヤマザキ)、ポンチ(シャーマンキング)、鴨川友朗(ふたつのスピカ)、武彦(シャングリ・ラ)
「バウ」は小学校低学年当時、超好きだった。しかし当時は内容のお下品っぷりから、我が家では「クレヨンしんちゃん」と並ぶ有害アニメ指定されていた。

オニオンナイト(CV.福山潤)
今木紫音(シャングリ・ラ)、奴良リクオ(ぬらりひょんの孫)、奥村雪男(青の祓魔師)
「ぬらりひょん」と「青の祓魔師」はほぼ観てないも同前だが、夜中に洗濯物たたむときとかにテレビつけたらやってる。

暗闇の雲(CV.池田昌子)
メーテル(銀河鉄道999)、早乙女のどか(らんま1/2)、スープーママ(仙界伝封神演義)
暗闇の雲さんの声は大変好きだが、裏に何かある系の女性ばっかりなのは何故。

セシル・ハーヴィー(CV.程嶋しづマ)
なし
舞台役者さんなんですね。

ゴルベーザ(CV.鹿賀丈史)
ジラルダン(劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕)、デスノート※(夜神総一郎)、 怪物くん※(怪物大王)
何気にみていた「怪物くん」。徹底的に低クオリティードラマなところが好きだった。稲森いずみが大変かわゆかった。実写版「ヤッターマン」のドロンジョ様(深田恭子)みたいなお色気担当でした。

バッツ・クラウザー(CV.保志総一朗)
孫悟空(幻想魔伝最遊記)、デビィ(ブラックジャック〜命をめぐる4つの奇跡〜)、藤守直(好きなものは好きだからしょうがない!!)
『最遊記』は相当すきだった。妹とふたりで「誰が好きか」とか言いあいしたのも今は昔(妹:沙悟浄、私:猪八戒)『ブラックジャック』はクリスマスにやってた2時間スペシャルのもので、その後始まったアニメ放送よりクオリティーも高かったし面白かった。

エクスデス(CV.石田太郎)
芝右衛門(芝右衛門狸:巷説百物語)、森谷帝二(名探偵コナン 時計仕掛けの摩天楼)、カリオストロ伯爵(ルパン三世 カリオストロの城)
なんだか懐かしいラインアップ。『時計仕掛けの摩天楼』はコナン映画史上いちばんおもろい。同率一位か僅差二位で『ベイカー街の亡霊』です。『カリオストロの城』はビデオテープが擦り切れるまで観た。台詞もだいぶ覚えた。

ティナ・ブランフォード(CV.福井裕佳里)
ノノ(トップをねらえ2!)、吹(天辺の糸:蟲師)、ミヤジ・ジュンコ(フリクリ)
「なぜならば!」が出てくるたびにノノを思い出す。「われわれはマラカイ・コンスタントを憎む、なぜならば」(by「タイタンの妖女」目次)でノノが浮かんだときはどうしようかと思った。どれもこれも好きなアニメですが、『蟲師』の「天辺の糸」はこの話そのものも大好き。

ケフカ・パラッツォ(CV.千葉繁)
ねずみ男(ゲゲゲの鬼太郎)、ドクター・カオス(GS美神)
レレレのおじさんみたいな観てないけど知ってるだけのやつとか『どっきりドクター』の猫みたいな観ていたけれど覚えてないやつとか『となりのトトロ』の"草刈りをしている男性"とかいうマイナーすぎるのを含めたらもっとある。…草刈りをしている男性?

クラウド・ストライフ(CV.桜井考宏)
今日からマ王!(渋谷有利)、田口哲也(勃ちっぱなし:空中ブランコ)、九土省吾(シャングリ・ラ)
『今日からマ王!』は原作がBLラノベのNHK深夜帯アニメです。たしか「ふたつのスピカ」と連続で放送していたので観ていました。原作もアニメも途中までは知ってます。『空中ブランコ』は大好き。「勃ちっぱなし」はオチが好き。

セフィロス(CV.森川智之)
玉藻京介(地獄先生ぬ〜べ〜)、明智健悟(金田一少年の事件簿)、焔(幻想魔伝最遊記)、奈落(犬夜叉)、アレックス・ロウ(LAST EXILE)、コンラート(今日からマ王!)、山下公平(空中ブランコ:空中ブランコ)
共通点は「イケメンだけど、なんか変」「精神的に不安定」「多分ダメンズ」だろうか。

スコール・レオンハート(CV.石川英郎)
なし
「観てないけど知ってる」やつなら、『NARUTO』のうちはイタチ。スコールの声は、既にいたるところで言われているけども、17歳には聞こえない。

アルティミシア(CV.田中敦子)
プル(スーパードール★リカちゃん)、イノセンス(草薙素子)
思いつきで調べた「リカちゃん」に名前があってびっくりした。

ジタン・トライバル(CV.朴ロ美)
エドワード・エルリック(鋼の錬金術師)、道蓮(シャーマンキング)、伊良部一郎・小(空中ブランコ)、お伊勢(大江戸ロケット)、スイス(ヘタリア)
中学生のときに『マンキン』にはまっていた。遠足のしおりの表紙にイラストを書いて男子に引かれた。思い返せば私もいい具合に発酵していた。

クジャ(CV.石田彰)
水野光一(とんでぶーりん)、申公豹(仙界伝封神演義)、猪八戒(幻想魔伝最遊記)、雲(FF:U)、桂小太郎(銀魂)
『FF:U』完結編、放送してください。

ティーダ(CV.森田成一)
結城亮(東のエデン)
「なんか話題だけどホントにおもろいの、これ?」というノリで観始めたらみごとにはまった『東のエデン』。いずれ劇場版も見なければならないとは思っている。

ジェクト(CV.天田益男)
なし
吹き替え系の声優さんがほんとに分からない。

シャントット(CV.林原めぐみ)
早乙女らんま・女(らんま1/2)、ミンキーモモ(魔法のプリンセスミンキーモモ)、ナナミ(七つの海のティコ)、綾波レイ(新世紀エヴァンゲリオン)、リナ(スレイヤーズ)、ムサシ(ポケットモンスター)、灰原哀(名探偵コナン)、恐山アンナ(シャーマンキング)、パプリカ/千葉敦子(パプリカ)
どれもこれも、良く観たアニメだなあ。懐かしい。

ガブラス(CV.大塚明夫)
ムーミンパパ(楽しいムーミン一家)、ブラックジャック(ブラックジャック〜命をめぐる4つの奇跡〜)、グウェンダル(今日からマ王!)、イノセンス(バトー)、医者(東京ゴッドファーザーズ)
『今日からマ王!』出演者が意外と多いことに驚いている私。

コスモス(CV.島本須美)
クラリス(ルパン三世カリオストロの城)、ナウシカ(風の谷のナウシカ)、お母さん(となりのトトロ)、トキ(もののけ姫)、お吉(舞首:巷説百物語)
そもそも今回リストアップしてみようと思ったのも、『もののけ姫』を観直し、トキの声を聞いてびっくりしたのがきっかけ。ほんとうに素敵な声。

カオス(CV.若本則夫)
穴子さん(サザエさん)、長耳(巷説百物語)、鳥居耀蔵(大江戸ロケット)、中根音吉(うしろの正面だあれ)
小学生のころ、終戦時10歳だったばあちゃんに『うしろの正面だあれ』(学校の道徳授業で使われてそうな戦争体験アニメ)を見せようとして渋い顔をされた。ごめんねばあちゃん。


覚えていないので載せなかったんですが、『YAT安心!宇宙旅行』『MASTERキートン』『名探偵コナン』『ポケットモンスター』の脇役で、いろんな声優さんが出演されてました。ビックリしました。
自分の知ってるアニメの偏りっぷりにもビックリしました。

ごまめでした。
2011.10.02(sun)23:40

どうも。ごまめです。

昨晩、今敏監督『妄想代理人』を全話視聴しました。

観始めた当初は、「OPのキ●ガイっぷが好きだ。でも内容は意外と普通だなあ」と思いました。ところが話数を重ねるうちに、物語はどんどん毒電波を発するようになってきて、最終話を観終えたとき、第一話から遠く離れた場所に連れてこられたことに気付く始末でありました。

大変面白かったです。

私は『空中ブランコ』というアニメが大好きで、DVDも全巻そろえてしまったのですが、『空中ブランコ』は「狂ったアニメ」であったと思います。一方『妄想代理人』は、「狂った物語」なのだと思います。でも、昨今はどのように狂態を演じて見せようと、それらも全部枠組みのなかに組み込まれてしまっており、視聴者をアッと言わせるのは並大抵のことではありませんね。
今敏監督の作品は、『東京ゴッドファーザーズ』も『千年女優』も『パプリカ』も言えることでしたが、「加速する物語」です。「物語」の始まりは極めて一般的なのに、いつの間にか加速をはじめるのです。

たぶん、ですが、『スカイ・クロラ』『天使のたまご』『イノセンス』の押井守監督が「構築された物語」の作り手で、視聴者に解釈をゆるす(もとめる?)作品なのだとしたら、今敏監督の作品のスタンスは、「解釈とかいいから、とりあえずついてこい、こっちに来れば面白いものがあると思う」なのだと思います。走ってるときは作り手のみなさんもどこに向かって走ってるのか分からない、という。

どっちも好きです。

どうでもいいんですが、第九話、三分ほどのストーリーが断片的にちりばめられた回の最後に「ETC(その他いろいろ)」がでてきて、思わず、「(K.ヴォネガット.Jrの)『チャンピオンの朝食』!」と声をだしました。夜中の12時に。

ぜんぶ好きです。
ごまめでした。

2011.10.02(sun)20:40

『武蔵野』は武者小路実篤ちがう。国木田独歩。

武者小路実篤は『友情』だ。

ごまめでした。

2011.09.16(fri)00:29

「忘れられない光景」のことを、しばしばいろんな人が文章に書こうとしてきました。
明治時代の小説家・武者小路実篤が『武蔵野』のなかで書いたのもそのような光景のひとつで、小説では「汽車の窓から見えた、なんでもない、ただの農民たちが働く様子や、武蔵野の風景」が描写されています。
描写、ということばどおり、文字によって風景を「描いて写」した。
絵画の世界ではこれを「写生」と呼びます。
日本の伝統的な浮世絵だとか、水墨画だとか、掛け軸や屏風になるような絵というのは、「お題」が決まっています。教会の壁に最後の晩餐の絵を書くのに似ています。そこでは、あらかじめ、先人たちによって「見られたもの」があり、水墨画や掛け軸を書く人たちは、「見られたもの」について描くことになる。つまり、あるモノや出来事についての「見方」がある。出来不出来や表現の違いはあれど、大枠は、「型」をなぞることになります。

「写生」の何が重要であるかというと、「見られたもの」を見ている主体は自分である、ということ。
今自分の目の前にある、一回性の、自分にしか見られない物事の状態を、「風景」と呼びます。
作家たちは「他の人は知らんけど、自分にはそのように見えた」ことを、文字や絵にしました。

人間のこころは100人いれば100人違うといいますが、そういうこともないと思います。私に似た私とは異なる人は、日本のいたるところにいるであろうし、そうでなければ、「風景」を題材にした小説が読まれることはなかった筈です。小説家たちの書いた「風景」は、最初は一回性のものだったはずなのに、いつの間にか反復されるようになっていきます。枠組みから脱却しようとする小説家たちが必死に描いた「内面」すら、枠組みの内部から逃れようのないものでした。

…ええと、おかしいな。こういうことを書きたかったわけじゃなくて、ですよ。
ていうか、この内容、私が1年と半年前に書いた卒論の内容であるわけで。

ごまめです。
でも「内面もまた枠組み通り」という話は、「自分」と「他者」の問題とは別なものだと思います。本質的に「似た者同士」ならざるを得ない状況なのに、ぜったいに「分かり会えない」から、他人と付き合うということがこんなに悩ましいのでしょうか。
ああ、これもどうでもいいです。

今日は満月。
お月さまにまつわる私の見た「風景」を書こうとおもったわけです。

高校生の冬休み、家族で長野県にスキーに行きました。ひとしきり遊び、そろそろお土産でも買いに行こうかという頃合いになりまして、スキー場のある山を歩いて下り、線路に出で、近所の町へ出かけました。辺り一面、雪がつもっておりまして、線路は単線でして、それはもう大変心躍る光景でした。 晩御飯にうどんを食べて、さあ帰ろうかという頃にもなると、辺りはもう闇の中です。来た道には街灯ひとつなく、あの道を再びのぼるのかとおもうと、家族一同、不安になりました。うどんに夢中で、懐中電灯を買うことを忘れていました。
ところが、いざ山道に差し掛かると、何の問題もなく歩くことができました。それどころか、街灯のある私たちの地元の山よりも、辺りはよっぽど明るいのでした。ちょうど、月の明るい晩でした。降り積もった雪が月明かりを反射して、あたりを照らしていたのでした。

あれほどきれいなものをみることはないだろうと、思っていたのです。
大学生のときに、この長野の山道に匹敵するくらい美しい光景を目にすることになるのですが、それはまた桜の季節にでも。

2011.09.12(mon)23:29

本を読むことは、太ることに似ているのかもしれません。

本のなかにはいろんな人の知識がつまっています。
ときどき、うんこより下らないのもありますけど、それでも本を読むと身につくモノがたくさんあります。たとえうんこだろうが、「そうかこれがうんこなのか」ということが学べます。読書において、これは重要であると思います。

まあそれはともかく。

思うに「よい本」というものは、書いた人が透けて見えてくるようなものだとおもうのです。このときこの人はどんなことを考えていたのかが、伝播してくるような本。その人がそう考えていたことを知り、思考の流れを追体験し、思わず身ぶるいしてしまうような、そういう本。もちろん「自分にとって、そう思える」ことが、重要なのでしょうけれども、だいたい同じ時間を生きてる人は9割方似たような思考回路なわけだから、自分がそう感じた本ならば、周りの100人もそう思う可能性を秘めているといえます。

そういうものがギュッと詰まった本は、読んでるうちに息ぐるしくなってきて、電車が駅を通過するのも忘れて、音すら聞こえなくなってしまう。

でもそれは、たとえば夏のトマトやはちみつと一緒で、「おいしいとこどり」のような気もします。一番美味しい時期のモノを、もっとも美味しい調理法で食べさせてもらっているだけなのではないだろうか。

のんべんだらりと生きてきて、気付いたらこんな年齢になっており、どうしてだか最近、「老い」を感じるのです。階段登るのがしんどいわけじゃなくて、あ、歳とったんだな私、と思う瞬間が、増えたように感じます。そういうとき、私はこれまでずっと「おいしいとこどり」で生きてきたのかと振り返り、どうもこのままだと太り過ぎて動けなくなってしまうのではないかというような気が、ヒシヒシとしてしまうのでした。

なんだろうな、頭でっかちにはなりとうないのですよ、わたくし。

以上、センチメンタルごまめでした(←なんかほんとにミクロな名前に見えますね。)

2011.09.02(fri)23:29

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