May you strive
To give only your best
May you find peace
And love and happiness
May your sorrows be few
And all your life remember
This song for you, for you, for you
This song for you


「THIS SONG FOR YOU」(songs by Emiko Shiratori,words by Linda Hennrick)から抜粋。
日本語にすると、こうなります。

全力を尽くすが為ゆえに
自分と戦いますように
心からの安らぎと
愛と幸せに満たされますように
願わくば悲しみが訪れませんように
そしていつどんな時でも
忘れずにいてちょうだい この歌を
あなたの為のこの歌を


優しくて強くて、遠くまでとどく祈りのこもった素敵な歌。
年末しずかにおうちで聴くにはもってこいです。どうぞおためしあれ。

2011.012.27(tue)23:10

こんばんは。ごまめです。
今夜は皆既月食がみられるそうです。ご覧になりました?

[original]という欄をあらたに設けてみました(内容が増えるかどうか、は未定です。)
矢野絢子さん(よく間違われますが矢野"顕子"さんとは違います)の「ニーナ」と、ニコ動で人気のボカロ楽曲「悪ノ娘」を思い出していたら、できました。節はあわせてないので、どちらの替え歌にもなりません。なんとなく雰囲気がにてる程度です。

個人的にとても気になる「サンマリノ」という国のことも思い出しつつ書きました。二年前くらいにNHKの番組(「THE世界遺産」だったかな?)で紹介されており、名前を知りました。中世ヨーロッパで繰り広げられた領土争いの中でも独立を守り通し、「フランスの傘下にはいってほしい」というナポレオンの申し出にも首を縦にふりません。小豆島以下の面積しか国土を持たない国ですが、紀元4世紀から今に至るまで、独立を貫いてきたといいます。
第二次世界大戦のときは屋根に白い十字を書き、爆弾を落とされないようにして市街を守ったそうです。イタリアからの10万人の難民を受け入れもしたといいます。

そういう「美味しいとこどり」の知識でできあがりました。
一度は行ってみたいです、ヨーロッパ。

2011.012.10(sat)21:06

あかんぞあかんぞ。
ウェブサイトをいじり始めたら、止まらなくなってしまいました。
ごまめです。

一部、リンクの整理をしました。あと、少しだけサイト規模を縮小しています。

それにしても、ことしは何ひとつ更新してないなあ…。

2011.012.06(tue)00:53

友人の結婚式に参列するため、里帰りをしておりました。
ごまめです。

初めての結婚式参加なので、ものすごく緊張しました。おかげさまでここ一週間はワクワクしっぱなしでした。 挙式は大変素敵でございました。神戸のチャペルでの挙式でしたが、おしゃれできれいで、ご飯(フランス料理)はおいしいし、ドレスはかわいいし、おまけにブーケプルズでブーケまで受け取ってしまって、自分が結婚したわけでもないのにテンションあがりっぱなしの一日でした。キャンドルリレーにケーキ入刀にお母さんへの手紙にと、割と盛りだくさんな内容だったにもかかわらず、新婦曰く「イベントは最小限にした」とのことでした。ウン百万円プランの90万円引きだったそうです。

どういう計算式を用いたら90万円引きが実現されるのでしょうか。

結婚式て、大変なんですね。もっとお金をかけていたであろうバブルの時期の挙式(うちの親世代ですね)や、豪勢なことで名高い名古屋の挙式は、どんなもんだったのでしょう。

「周りに祝福されない結婚は破たんする」とはうちの母の言うところですし、今年の春にやっていたNHKのドラマ「下流の宴」でも主人公の母が言っていましたが、本当にそうだよなあ、と思いました。もちろん、例外はあるでしょうけれど。
結婚式という「祝福の儀式」で大勢から祝福されることの重大さを、しみじみ味わいました。周りから「おめでとう」と言われて、はじめて二人の婚姻が「おめでたい」ものになるんでしょう。松尾スズキさんの戯曲『ふくすけ』には、目が見えない女性に「お前は目が見えなくて不幸なんだよ」と"教える"男性が登場しました(この男性は女性が自分よりも不幸でないと困るのです)が、結婚式では自分たちが幸せであるということを教えられているのかもしれません。

結婚て、人類が誕生してこのかた、地域によって多少の差はあれど、どこの国でも行われ続けてきた制度の一つなんですよね。お葬式と一緒で、本人のためでなく周りの人間のためにも、この儀式は必要なのだなあと思いました。……でも、大変そうだなあ。

2011.012.04(sun)00:12

この時期になりますと、毎年のことながら「年賀状」に頭を悩ませます。

こんにちは。ごまめです。

これでも実は、毎年出しています。年賀状。絵を描いて、増刷(以前は「プリントゴッコ」、最近はコンビニプリントを活用中)して、一枚ずつコメントして、住所書いて。最近は出す相手を「親族一同」と「自分からは縁を切りたくない人たち」に絞っているので、毎年、多めに見積もっても15枚以内で収まります。
この点に限っていえば、昨今うわさされる年賀状文化の衰退が、ものすごくありがたいです。返事がこないこともありますが、電話と違って、手紙は「そういうもの」だから仕方ありません。

ぶっちゃけ、中学生の時がお絵かきライフのピークでして、以降お絵かきスキルは衰退の一途をたどったので、悩み抜いて手書きの年賀状を作っても、そう大したクオリティにもなりません。新年にふさわしい素敵コメントスキルにも乏しいので、年々年賀状を出す意義みたいなものが減ってきている気がします。(中島義道さんは『私の嫌いな10の人々』という著書の中で「年賀状を出す人」を取り上げて、「俺は年賀状なんか出さない!」と宣言しておられました、たしか。かなりうろ覚えですが、「がんばって『いい人』ぶるから、しんどくなるんだ」というような本でした。)

うーむ。
でも、今年も考えています、年賀状。
「年賀状が届かなくなる」というのが縁の切れ目になる、という母の言葉が影響しているのかもしれません。とりあえず年賀状さえだしておけば、住所と生存確認ができる、というわけです。思春期からこのかた、母の言うことには大抵反抗してきましたが、「年賀状」と「手土産」に関しては、母の意見を参考にしています。

うーん。年も変わるし、この日記もブログに移行しようかと考え中です。メモ帳編集は軽くていいんですが、月が変わるとめんどくさいからなあ。

2011.012.01(thu)00:08


どうも、ごまめです。

本を読みました。ちょっとだけ自慢ですが、私は本を読むのが早いほうです。速読をやっているわけではなくて、純粋に読みおわる速度が早いです。なので、文芸書、とくに、宮部みゆきや京極夏彦(両氏の作品は高校生のときにえらくハマり、読み倒したのでした)といったエンタメ系作品限定です。
今日読んだのは、高田和明「ジェノサイド」。「本の雑誌」2011年度上半期ベスト10で堂々1位となるなど、最近話題の本のようです。ようです、というのも、自分で探した本ではなく、職場のかたのおすすめで、貸してくれた本だからです。

たしかに面白い。一気に読みました。帯にかかれてある「晩飯を抜いてでも読むべし」は伊達じゃないのです。
ただし、「一気に読みました」というのは、昨今あふれる「面白い本」への褒め言葉でもありますが、実は「一気に読めてしまう本」でもあるということです(あるいは「一気に読まないと気持ち悪い本」ですね。たとえば桐野夏生「OUT」。明日に引きずるのをためらうくらいエゲツナイ本でしたが面白かったです。)

面白かった……だのに、なにがひっかかるのだろう。
以下に、引っかかった点をあげていきます。軍事、薬学、人類学と、登場する専門的な知識もおおく、作品を書くにはそうとう勉強しなくてはならないだろうと思います。検証が間違っていたとしてもこちらにはわかりません。Amazonのレビューでも言われてましたが南京大虐殺などの歴史的出来事の真偽を検証する知識がこちら側にないし、この作品に対する評価で「南京大虐殺」に言及すること自体が泥沼な気がしてならないので、この点について突っ込むのもやめにします。(なので、韓国人留学生の青年がとてもオトコマエな点も無視します。オトコマエに難癖つけるのはただのヒガミです。)


私が気になったのは「作者の歴史観」ではなくて、「作者の言いたいことを物語に登場させること」。
そして、作品が徹底的に映画的、特に「ハリウッド超大作的」であったということです。

……ええと、どういうことでしょう。これだと結局、「作者の歴史観」を否定していることにはなりはしませんか。

ところで、この作品は「社会派」として読まれているのでしょうか。
読んでいて思い出したのは、湊かなえ「告白」でした。あの本も「社会派」と銘打たれてはいましたし、たくさんの人に読まれましたが、私は「社会派」ではなかったと思っています。いや、私も「社会派小説」がどういうものなのか知らないのですけど、たとえば「社会派」が「現代社会の諸問題に鋭くメスを入れた作品」というような解釈なら、それ、余所でやればいいんとちがう?と思うわけです。

「ジェノサイド」には、「作者が言いたいこと」が頻出するのです。
作者には確固たる信念があるようにも感じられます。たぶん、あるのだと思います。でなければ、『現代医学では治療不可能の難病のために床にふせた息子を妻にたくし、「治療費を稼ぐため」という名目のもとアフリカのジャングルで奮闘する主人公イエーガー』は出てこないと思います。作者は「息子(の命)のためならなんだってやる父親」が理想なのでしょう。彼がアフリカで奮闘することと息子の病気を治療することは劇中で確かにつながっていますが、それでも、ものすごく違和感が残ります。彼は色々言い訳してますが、「『息子の為なら何でもする』という名目のもと、『家族を残してひとり困難に立ち向かう父親』としてハリウッド映画の主役になりたかった」のだと思います。
これがアメリカン・ドリームってやつですか(違いますかそうですか。)
作品は三人称で書かれているので、この「作者の言いたいこと」は台詞としてではなく、「地の文」に頻出します。そんなもん、読んでいるこちらは聞きたくない。アメリカの非人道的ふるまいやアフリカの戦争について言いたいことがあるなら、なにも小説にする必要はありません。ルポルタージュにするべきです。この作品は「作者が言いたいこと」と「物語」の混同が、ものすごーく気になるのです。

そしてこの混同が影響しているせいか、主要登場人物は基本的に正義感がやたら強く見えます。正義を実行することにためらいが(あまり)感じられません。
「これは悪かもしれない。でもやらなきゃいけないんだ!」……でもこの論理、作中で非難されているアメリカさんと、一緒とちがいます?
ただ、私は山崎豊子「沈まぬ太陽」を読んで感動していたクチでもあるのですよね。山崎豊子も「巨悪に一人で立ち向かう主人公像」が好きなんだと思われます(「白い巨塔」「不毛地帯」とか。)それで、権力者が嫌い。嘘や欺瞞が嫌い……ううむ、私が「ジェノサイド」を素直におもしろがれないのは、歴史問題を扱っているからな気がしてまいりました。
言い訳すると、「沈まぬ太陽」の主人公は、自分の信念に家族を道連れにします。「ジェノサイド」の人物は信念による犠牲が伴いません。信念で動いて、被害をこうむるのはさしあたり自分だけ。傭兵のイエーガーも、一介の大学院生研人も、自分の信念には自分の命しかかけません(おお、「沈まぬ太陽」恩地元が自分の命だけはかけていないのと好対照です。)
社会悪に立ち向かうなら、かけるものは命ではありません。親族一同、子子孫孫の安穏な生活です。だれだって、とりあえず今ある社会制度に逆らいさえしなければ、安穏に暮らせるのです。これじゃいかん!という「他者に理解されない信念」が社会を変えていくのだとしたら、かならず「身内の不幸」は付きまといます(あるいは「独りぼっち」ですね。この場合も命の危険ではありませんが。)社会から邪魔者扱いされた人間の家族は「社会の邪魔者」になる。たとえば、オウム真理教の教祖・浅原彰晃の子孫は、「浅原彰晃の子どもである」という理由で大学入学を断られたそうですし、オウム真理教がいたから日本で宗教集団は「うさんくさいもの」だし「この街から出て行ってほしいもの」です。
自分の命(だけ)をかけて社会悪に立ち向かう人のことはテロリストと呼ばれるのではないでしょうか。ようするに、私は昨今流行りの「誰かの為に命がけ」が大嫌い、なのでした。

さて二つ目。「徹底してハリウッド超大作」という点。
多分、筆者は好きなんだと思います、ハリウッド超大作。というか、もとは映像分野の方なのですね。
既に書きましたが、主人公は「ハリウッド超大作の主人公になりたい男」です。富も名声もない一般人のであり、普通よりもいささか不運であり、ダイ・ハード(簡単には死なない不死身の男)であれば、「ハリウッド超大作の主人公」になれます。
一冊の本を読んだだけで、それを書いた人物の人格を類推するというのも底が浅いですが、前述の「正義感」にしても「ハリウッド映画的」にしても、この人女性嫌いなのかな、と思うのです。女性差別的というのではなく、女性が入る余地のない、男性をめぐる物語が好きなのだろうか、と。
ハリウッド映画のなかで、命をかけて闘って報酬を得ているのは男性です。「ジェノサイド」でも、命がけで行動するのは男性諸君。女性は最後にちょろっとだけ登場しますが、実はこの女性陣が男性陣よりも精神的に数倍えげつないことをやっていたことが判明します。肉体的にも精神的にも極限状態の場所でえげつないことをするのと、安全な場所から精神的にえげつないことをするのとでは、後者のほうがより「えげつない」と感じるのではないでしょうか。
作中「男と女は脳の作りが違う」というようなことばが登場します。それは事実でもあるでしょうし、著者自身の女性観を表わしているようにも見えます。それが「無意識に根付いた感情」だろうと「一般的な男性の普遍的なふるまい」だろうと、どっちか分からないし、どちらでもかまわないのですが。

ああ、あとひとつあった。
傭兵イエーガーがアフリカで行動を共にする仲間のうちの一人に、日本人がいます。この人物、職業が「傭兵」と、日本人にはなじみ薄いもののうえ、劇中ほとんど「ミック」という愛称で呼ばれており、日本人読者にとっては彼が「日本人である」という理由が希薄になっています。彼は大変やなやつで、しばしば白い目で見られます。が、彼をめぐってドラマが展開するわけでもなく、彼が「やなやつ」になった経緯が明確になるわけでもなく、「やなやつ」のまま死にます。彼の存在理由は「日本語が話せる人材が必要だから」で、イエーガーと行動を共にする仲間にも日本語を話す人間はいないのですが、彼が死んだあと特別困る展開もありません。
「ミック」は何のためにいたのか。それは「身内に殺されるため」でした。
彼は唯一、仲間から憎悪と軽蔑を一身にうけ、仲間の手によって死ぬのです。ここでも不快に感じるのは、「ミック」の身体から「日本人」の記号が取り払われたうえで「アメリカ人」の手によって銃殺されている点です。作者の言をかりると、戦争において国籍に関係なく人が死ぬことは「公平を期した」結果なのかもしれません。死ぬのは「ミック」だけではない。子どもも大人も平等に死にます。でも、ここで「ミック」が死ぬことは平等といえるのか。そして日本人らしくない呼び名は何なのか。そのくせ、地の文ではことさら「日本人」が強調されます。「ミック」は「日本人である」という理由で身内に殺されたのだと感じるから、このシーンがことさら不快におもえます。
あ、これは作者に仕組まれた「ジェノサイド」の一つかもしれません。でもこれは、登場人物同士の「ジェノサイド」ではなく、作者による登場人物の「ジェノサイド」です。

長々書いてしまいましたが、私は「この作品が男女とわず嬉々として受け入れられているとするならちょっと不快」と思ったのでした。たいそう興味深い内容を取り扱っている本ではありますが、高く評価される本ではないと思います。(そして、この本にたいするわたしの疑念は、この本を貸してくれた人物に直結していることも、忘れてはいけないのでした。自発的に読んでいたら、また違った感想だったかもしれませんね……。)
*
(2011/11/25 追記)
冷静になって読み返すと、けっこうしっちゃかめっちゃかなことを書いていますね。
まあ、いいです。このままにしておきます。がんばって夜ふかしして書いて翌日寝坊までした文章ですので消すのはもったいないです。

思うに私は、この作品に「二面性のある登場人物がいない」ことが気に食わないのです。作者は、「人間は今までなんども戦争をしてきた。なんてバカなんだろう」ということを繰り返し言います。作品には世界各国の登場人物が現れます。しかし、善人は最後まで善人で、悪人は最後まで悪人なのです。日本のしがない大学院生・研人は最後までいいやつで、アフリカでたたかう日本人傭兵ミッチーは最後まで「やなやつ」です。これは、私がよく耳にする「○○人は嫌いだけど、○○人が悪い人ばっかりじゃないのは知ってる」という言葉と似ています。

そういうものなの? 一部の「悪人」が原因で、この世界は麗しいものにならないのか?
私はそうは思わない。

2011.011.23(wed)23:11

ずいぶん、時間があいてしまいました。
ごまめです。

先週の土曜日、日暮里繊維街に布の買い出しへ行きました。雑誌『暮らしの手帳』に載っていたルームシューズを自分用に作ったところ、母と妹から「わたしのぶんも!」という嬉しい(けど割と大変な)依頼があったので、そのための布を買い足したのでした。
日暮里繊維街の布は、質がよいわりに安価で売っているものが多いので、行くたびに買い過ぎてしまいます。今回も、ワゴンセールの特売品をたくさん買いました。
自分の身の回りのこまごました物を作って使いつぶす分には、少々傷があろうとかまいませんからね。

2011.011.19(sat)20:11

どうも、お久しぶりです、ごまめです。

2011年も残り二カ月を切りました。
歳をとれば時間が過ぎるのが早くなるとはいいますが、「社会人」を開業してからここ2年、そのことを痛感しています。特に、夏にスイカを食べず、秋だというのに紅葉も見ていないことに気付いてからは、なおさらです。山が近いところに住んでいたし、大学も木々の多い場所だったせいか、そういったものは「当たり前」で、わざわざ観に行くものではなかったのですが、そうも言ってられなくなりました。
どうも今まで、そういう季節感をもって時間を計っていたらしいです。アメリカや東南アジアにでも行けば、また違った時間間隔が芽生えるのでしょう。

さて、2011年ですが、今年は個人的に「映画元年」でありました。
といっても、まだ2011年も二カ月弱残っているので、もしかすると今から「ゲーム元年」「ボカロ元年」でも到来するかもしれませんけど。
まあ、ともかく。

イーストウッド出演・監督作品、スピルバーグ作品にはじまり、タランティーノやスター・ウォーズの有名どころや、ベルナルド・ベルトルッチ、ディビット・リンチなど、名前しか知らなかった監督の作品もたくさん観ました。これもひとえに、「TSUTAYAでDVD5枚1000円をためらわず借りられる」経済力を有したためです。芝居を観るよりお手軽ですし、一人暮らしなら電気を消してポップコーンとコーヒーでもスタンバイしておけばシアター気分も味わえます。
それに「映画鑑賞」は市民権を得た趣味領域ですから、「読書」や「ネットサーフィン」よりも「映画が趣味です」と言えた方がカッコよく見てもらえます。趣味がないひとに「映画鑑賞」はオススメです。

観終わったあと、監督の情報や映画の情報、感想を、ネットで調べたりもしました。

これは、映画に限らずずっと思っていたことなのですが、作品に関する『解釈』がとても活発です。(特に顕著なのはアニメ映画ですが、事態は実写でも似たようなものです。)
ここで『解釈』と表現するのは「二次創作的読みこみ」や「語られていない設定を創作」することではありません。それらはどちらかというと『妄想』です。画面に映ったものをとりあげ、そこから物語を読み解くことを『解釈』といいます。たとえば、「主人公がリンゴを食べている」シーンから「本編と聖書との関連」を探すようなことを言います。画面に映ったもの・描かれているものを拡大し、そこから「作者(物語)の言わんとすること」を読み解こうとする行為です。

やってみれば、それはそれで、面白いんです。
かくいう私自身、解釈が好きなほうです。

『解釈』とは少しズレますが、映画を観ていると「オマージュ」をよく見かけます。パクリや真似ではなく、「自分はこんな素晴らしい映画をみた」という足跡みたいなもので、監督さんは自分が影響を受けた監督の作品に対して敬意を払っています。その元ネタを探したり、オマージュ箇所を探したりするのは大変楽しいです。
思想家の内田樹さんは、こんな風におっしゃってます。

「『仲間の符丁』は『符丁である』ということが誰にでもわかるようでは暗号としては昨日しない。『これから暗号を発信しますよ』とアナウンスしてから暗号を発信するスパイはいない。暗号はそれがあたかも暗号ではないかのように書かれなければ意味が無い。だから、かき手から読者への『コールサイン』はつねに『ダブル・ミーニング』として発信される。
 (中略)
 すぐれた作家はだから必ず全編にわたって『コールサイン』をしかけている。『わかりやすいコールサイン』から『わかりにくいコールサイン』まで、さまざまなレベルで読者に「めくばせ」を送る。そして、どのレベルのコールサインであっても、受信した読者は、自分は凡庸な読者たちの中から例外的に選び出された「幸福な少数」だと信じることができる。」(「邪悪なものの沈め方」P.50)

複製技術が発達してこのかた、映画を何度も再生して映像の中に「映された」ものを追いかける作業も容易になりました。インターネットによって、ひとりひとりの受信者に向けられた『コールサイン』を共有する作業も当たり前になりました。ネット上での議論を想定したかのように、難解で複雑なストーリーや、モチーフを多用した作品も数多くあることでしょう。

もちろん、私だって、そのような娯楽を楽しんで享受しています。『コールサイン』を見つけられると嬉しくなります。アニメ映画(特にジブリや押井守作品)において『解釈』が活発なのは、実写映画と異なって「すべて描かれたもの」だからでしょう。掘り返せば掘り返すだけ『コールサイン』が出てきますから。
でも、『コールサイン』を掘り返すばかりでは、つまらないと思います。
小説が「一人で作る」のに対し、映画は「大勢で作る」ものです。映画は監督ひとりだけでは作れませんから、監督が予期しない出来上がりになることだって当然あり得ます。そうすると当然、画面には「予期しないもの」が映りこみます。監督だけならまだしも、「誰もが予期しなかったこと」が映る可能性だってあります(幽霊的な意味ではありません。)

どこまでが意識されて行われたのかなんて、作品の作り手にすら分からないかもしれない。そういう「意識されざるもの」をなかったことにはできません。と、いうか、「意識されざるもの」のほうが多いかもしれない。
「意識されざるもの」の入り乱れっぷりが、映画作品の面白さに関わっているのかもしれません。

2011.011.03(thu)23:29

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